コラム・インテリジェンス -3ページ目

コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

日本人の海外での活躍を

日本で日本人が

過大に評価するのは

善でも悪でもない。

 

しかしながら、メディアが

嘘をついてはいけない。

 

日本人の海外での活躍を

日本のメディアが

過大を通り越して

 

まるで嘘のように

海外での実際の評価と

喰い違って伝えるのは

 

善悪でいえば悪であるようにも

感じてしまうような気も

しないでもないのです。

 

たいした反響でもなかったのに

大反響と伝えたり、

 

たいした興奮でもないのに

大興奮と伝えるのも

 

いかがなものかという懐疑を

いだかせてしなうような

気もしないでもないのかも知れません。

 

 

「ペテロが見せた人間の弱さのおかげで福音書はすぐれた人間ドラマにもなっている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

人間的に弱い人間でも

キリスト教は受け入れますよというメーセージのようにも捉えられます。

 

どこかの新興宗教の

パンフレットにもありそうな

勧誘書的雰囲気をこの

ペテロの福音書に

感じてしまうのは、

僕がひねくれているからなのでしょうか。

 

「『ヨハネ福音書』の中には、ペテロが復活したイエスに会う印象的なシーンも語られている」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

有名なイエスの復活。

僕のようなひねくれ者には、もうこうなると、なんだかパラノイア(偏執症)の被害妄想、幻視、幻風景であるようにも思えてしまいます。

 

「ペテロは当然救われないはずだが、そのペテロすら愛ゆえに赦されたことは、自分の原則すら曲げるほどに神の愛は無限であることになる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

このあたりの思想は、

どこか仏教的でもあると

言えるのかもしれません。

 

寛容、博愛……

ではあるけれど、

仏教においてはそれさえない。

 

仏教では、

寛容も博愛も、

すべては無。

 

ましてや愛だ提灯だ、

赦しがすべったころんだ

などという概念さえ、

無としてあるいは

単なる事象に過ぎない

として

 

イッキに潔く切り捨てる、

ような気もしないでもないのです。

 

「イエスがペテロに愛していると三度言わせた後で、もうそれにこだわらず、ペテロを司牧活動へと誘ったのも、情緒に足を取られず前向きの姿勢を促すというキリスト教の長所を生んだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

「もうそれにこだわらず」

といったところで、もう

すでに、三度も

 

「愛していると言わせた後で」

であるのだから、

 

潔いとも「こだわらず」とも

言えないような気もしないでも

ないのです。

 

が、しかしながら、

そのような人間を、

ペテロのような人間を、

司牧活動へ誘い促すという

 

戦略は、

マーケティング的にも、

ビジネス的にも、

 

リーダーの選択肢的にも

 

優れているとも

考えられるのです。

 

「イエスは仕え、与えるためにこの世にやってきた『人の子』だ。イエスは『神の子』でもあるはずだが、自分のことを何度も『人の子』だと呼んだ。それはイエスが真に『人の子』であると同時に『ダニエル書』で神が遣わすと預言された『人の子』であることを示しているらしい。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

この辺りは非常に

ややこしい。

 

要するに、イエスは、

人の子であるのか

神の子であるのか

 

どっちなのさぁ

という感が否めない。

 

キリスト教の聖書は、

旧約聖書が

事実に基づく真実の書

であるのなら、

 

新約聖書にいたっては、

また聞きのまた聞き的

曖昧さであるといっても

けっして過言ではないと

考えられるのです。

 

いろいろと問題多き

ペトロではありますが、

その質素で

人間的な印象が、

 

現代の

ローマ法王と比べると、

 

その豪華で華やかな

印象と

 

対比をなすもののようにも

お見受けできぬようで

そうでもないようにも

考えられなくもないような

気もしないでもないのです。

 

「ローマ法王は今でもペトロの後継者だと称される。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

肺ガンによる余命宣告において

指定された余命期間を通り過ぎて、

 

およそ4か月、

 

僕は健やかではないけれど

穏やかに

意気揚々というにはほど遠いけど、

だらだらと何となく何事もなく、

 

過ごしているというほど偉そうにでもなく

ほそぼそと申し訳もなさそうでありそうに、

毎日なんとか生かせていただいているようです。

 

「病気、悪魔、死を征服する11の奇跡を行い、12人の使徒を選んだ。その他、少ない食物を増やして5000人の人を養ったり、水上を歩いたりという奇跡も示した。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

そもそも、

11の奇跡という

11という数字に限ったエピソードは、新約旧約どの聖書を見回しても見つからない。

なにがどうして11なのか、どんな11のエピソードがあるのかが、非常にあるいはとても抽象的すぎるとも考えられます。

 

またなぜ12人の使徒であったのか。

使徒がなぜ12人でなければならなかったのか。

この12という数字、

員数に対する説明も聖書の中には見当たらない。

 

食物を増やして5000人の人を養ったという記述に関しても、

5つのパンと2匹の魚を

5000人分の胃袋を

満足させるだけの食糧としたあるいは変化させた。

 

これにも具体的な方法、数字があげられているわけでもなく、

いってみればアッタリマエに抽象的すぎる。

 

挙句の果てには

水上を歩くというのだから、

これはもう喜劇いや見世物

または興行的イベント、手品師が演目の最後に、

盛り上がりを期待してのイリュージョン的要素が

くっきりしっかりしすぎているともいえるような

気もしないでもないのです。

 

ペテロをピエロに見立て、小舟という大道具的小道具を用い、みごとに模った巧みでファンタスティッキーなマジックとも考えられなくもなさそうでありそうでもあるようです。

 

つまり一連の

複数の福音書に見られるこのシーンは、

詐欺集団が、

「私たちは11の要職にそれぞれのエキスパートである12人のプロフェッショナルを配備し、最近では5000億円の経常利益を計上いたしました。」などという口上とともに、

 

「それでは最後に私たちの実力を表象した

    抽象寸劇をご覧いただきましょう」などといって、

    観客の目の前でピエロをペテロに仕立て、もとい、 

 

ペテロをピエロに

小舟ならぬ人間が

すっぽり収まるくらいの箱に

ピエロもといペテロを入れて

脱出劇を演じて

見せるようなものだと勘繰りたくもなるような

そうでもないような内容のあるようなのか

ないようなのか内容なのか概要なのかさえ

わからなく幻惑されそうな気もしないでもないのです。

 

「当時のパレスティナで使われていたアラム語の口語的表現がうかがえるが、対象読者は非ユダヤ人だったらしく、ユダヤ人の習慣について細かく説明している。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

征服者(非ユダヤ人)が

非征服者(ユダヤ人)の生活を知ることは、

征服者にとっては

重要なミッションであったに違いない。

 

馴染まなければならない。

馴染めなければ

暗殺される恐れさえあるわけですから、

そりゃあもう必死で

マルコによる福音書を読み漁ったのかとも思われます。

 

というより、人数的には、

アタリマエに、

 

征服者(非ユダヤ人)のほうが

非征服者(ユダヤ人)よりも

圧倒的に多かったようですので、

 

マルコによる福音書も自動的に

かの地域においては

ベストセラー的勢いで

愛読されていた様子が

まるで手に取るかのように

見て取れるような気もしないでもないのです。

 

僕の目には、

当時のエジプト人たちが、

 

なんだかなんでだかもわからないけど、

 

片手に宗教的になんらかの意味をもつ棒切れを持ち、

もう一方の手には「マルコの福音書」を持ち、

 

石造りの街中を歩いていたり、

街中のそこここに配備されたこれもまた石造りのベンチなり、

 

はたまたなんでだかはわからないけど

これもまたまた石造りの街中にある石造りのカフェ的な場所で

アタリマエに石造りの椅子に腰かけ、そのテーブルの上にはアタリマエのように

 

「マルコの福音書」しばしば『マタイ』あたりも

みんながそれぞれの姿勢で、

みんながそれぞれの

ガラベーヤとよばれる足首まであるゆったりとしたエジプト衣装を身にまとい、

それぞれの福音書を夢中になって愛読していた様子が、

はっきりくっきりと

目に映ったりもするような気もしないでもないのです。

 

余命宣告を受けた日から、

もはや1年と半年が経ちました。

 

愚者はなかなか往生

できないのかも知れません。

 

少なくとも

余命宣告を受けた日時よりは

半年以上も生き延びてしまいました。

 

「ユダヤ人たちは自分たちの神殿のために供物や税を納める他に、征服者であるローマ帝国からも税を徴収されていたわけで、徴収人は敵側協力者、裏切り者として忌み嫌われていた。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

マタイは

もともとユダヤ人でありながら、

 

敵対するローマ帝国のために

同胞であるユダヤ人から

 

なにがしかの徴収をしていた人で、

いってみれば裏切り者、

 

敵側協力者であったようです。

 

当時のユダヤ人の中には、

マタイのように、

 

ユダヤ教徒でありながらも

キリスト教寄りに

 

成りつつある者が

増殖していたようです。

 

つまりは

ユダヤ教徒でありながらも、

 

キリスト教へ改宗する人も

増えていたということなのです。

 

「この福音書は最初はキリスト教に改宗(イエスを救世主キリストと認める)したユダヤ人を対象にして書かれたものなので、イエスがいかにして旧約聖書に書かれていたことを成就したかを示すことに力が入れられている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

旧約聖書とは、

もともとユダヤ人が、

 

ユダヤ人のために、

書かれた書物であった。

 

新約聖書は、

征服者が被征服者のために、

 

ユダヤ教もよいけど、

そのままではだめだよ

 

ということで、

 

征服されちゃった被征服者と

征服者自身のために書かれた

 

いわば落としどころともいうべき、

いってみれば、チャンチャラ可笑しき

書物であったとも考えられます。

 

征服者が、征服しちゃった被征服者と

自分たち自身のために

 

あらたな信仰が必要であるということで、

 

征服されちゃった被征服者の

立場もおもんばりつつ

 

それもいいけどこれも、ね、

くらいのスタンスで書かれた

チャンチャラ可笑しき

チャンチキなる書物であるとも

考えられなくもないのかも知れません。

 

「病気、悪魔、死を征服する11の奇跡を行い、12人の使徒を選んだ。その他、少ない食物を増やして5000人の人を養ったり、水上を歩いたりという奇跡も示した。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

そもそも

11の奇跡という言葉自体、

旧約にはアタリマエに

存在していません。

 

そこでアタリマエに

この11の奇跡なる言葉は

 

新約聖書の四つの福音書

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書において、イエスがキリストつまりはメシアであり救世主であると示す証拠として、

いきなり、唐突に、

何の前触れもなく

登場したものであると

考えています。

 

結論的言い方をしてしまえば、

 

旧約聖書は純粋に、

ユダヤ人のための

ユダヤ人による

ユダヤ教の正典であり、

 

新約聖書は、

いるのかいないのかさえわからぬ、その存在さえあやぶまれるイエスを救世主として崇め、

 

はじめからユダヤ教徒を巻き込んで全世界的宗教をも視野に入れた新興宗教のテキスト的感が否めない。

 

個人的に僕は、

 

以下の一点に集約された

視点でものを

言っているような

気もしないでもないのです。

 

「あそらくイスラエルの

ヨルダン川西岸地区の

死海付近のクムランにある自然および人工の洞窟において、

20世紀中ごろにユダヤ教の聖書(キリスト教の旧約聖書)の古写本断片である「死海文書」が発見されたという事実現実を指していることと思われます。」

 

コラム・インテリジェンス

「クムラン 3」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12593187261.html

 

数千年以前の人類といえば、

「ホモ・サピエンス」と呼ばれた時代であり、3千年前にようやく古代文明が生まれ、文字とか思考が芽生えたと言われているのに、

そんな時代に、

ヨルダン川西岸では

死海付近の

クムランと呼ばれる地域では、

後にユダヤ教、

あるいは旧約聖書のもととなった文書が、

 

ある限られ選ばれた人たちによって

執筆され始めていたという事実が、

僕の琴線を直撃して、

古(いにしえ)のミステリーに

夢中になってしまったようです。

 

死海文書、

ヨルダン川西岸、

イスラエル、旧約聖書、

クムラン……

 

なんとも魅惑的なワードが僕の脳裏を占拠してしまったのかも知れません。