ソフィア43 | コラム・インテリジェンス

コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

日本人の海外での活躍を

日本で日本人が

過大に評価するのは

善でも悪でもない。

 

しかしながら、メディアが

嘘をついてはいけない。

 

日本人の海外での活躍を

日本のメディアが

過大を通り越して

 

まるで嘘のように

海外での実際の評価と

喰い違って伝えるのは

 

善悪でいえば悪であるようにも

感じてしまうような気も

しないでもないのです。

 

たいした反響でもなかったのに

大反響と伝えたり、

 

たいした興奮でもないのに

大興奮と伝えるのも

 

いかがなものかという懐疑を

いだかせてしなうような

気もしないでもないのかも知れません。

 

 

「ペテロが見せた人間の弱さのおかげで福音書はすぐれた人間ドラマにもなっている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

人間的に弱い人間でも

キリスト教は受け入れますよというメーセージのようにも捉えられます。

 

どこかの新興宗教の

パンフレットにもありそうな

勧誘書的雰囲気をこの

ペテロの福音書に

感じてしまうのは、

僕がひねくれているからなのでしょうか。

 

「『ヨハネ福音書』の中には、ペテロが復活したイエスに会う印象的なシーンも語られている」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

有名なイエスの復活。

僕のようなひねくれ者には、もうこうなると、なんだかパラノイア(偏執症)の被害妄想、幻視、幻風景であるようにも思えてしまいます。

 

「ペテロは当然救われないはずだが、そのペテロすら愛ゆえに赦されたことは、自分の原則すら曲げるほどに神の愛は無限であることになる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

このあたりの思想は、

どこか仏教的でもあると

言えるのかもしれません。

 

寛容、博愛……

ではあるけれど、

仏教においてはそれさえない。

 

仏教では、

寛容も博愛も、

すべては無。

 

ましてや愛だ提灯だ、

赦しがすべったころんだ

などという概念さえ、

無としてあるいは

単なる事象に過ぎない

として

 

イッキに潔く切り捨てる、

ような気もしないでもないのです。

 

「イエスがペテロに愛していると三度言わせた後で、もうそれにこだわらず、ペテロを司牧活動へと誘ったのも、情緒に足を取られず前向きの姿勢を促すというキリスト教の長所を生んだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

「もうそれにこだわらず」

といったところで、もう

すでに、三度も

 

「愛していると言わせた後で」

であるのだから、

 

潔いとも「こだわらず」とも

言えないような気もしないでも

ないのです。

 

が、しかしながら、

そのような人間を、

ペテロのような人間を、

司牧活動へ誘い促すという

 

戦略は、

マーケティング的にも、

ビジネス的にも、

 

リーダーの選択肢的にも

 

優れているとも

考えられるのです。

 

「イエスは仕え、与えるためにこの世にやってきた『人の子』だ。イエスは『神の子』でもあるはずだが、自分のことを何度も『人の子』だと呼んだ。それはイエスが真に『人の子』であると同時に『ダニエル書』で神が遣わすと預言された『人の子』であることを示しているらしい。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

この辺りは非常に

ややこしい。

 

要するに、イエスは、

人の子であるのか

神の子であるのか

 

どっちなのさぁ

という感が否めない。

 

キリスト教の聖書は、

旧約聖書が

事実に基づく真実の書

であるのなら、

 

新約聖書にいたっては、

また聞きのまた聞き的

曖昧さであるといっても

けっして過言ではないと

考えられるのです。

 

いろいろと問題多き

ペトロではありますが、

その質素で

人間的な印象が、

 

現代の

ローマ法王と比べると、

 

その豪華で華やかな

印象と

 

対比をなすもののようにも

お見受けできぬようで

そうでもないようにも

考えられなくもないような

気もしないでもないのです。

 

「ローマ法王は今でもペトロの後継者だと称される。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)