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コラム・インテリジェンス

透き通るような心が…ほしい…。

夏が終わり秋になると

多くの人が

 

センチメンタルあるいは

哲学的感傷主義または

単なる感傷的な情動に

 

おそわれるような気も

しないでもないのです。

 

そしてその感傷または情動には

多くの場合、

少年少女時代の思い出が

影響をおよぼしている

のかも知れません。

 

「イエスが少年になった時、両親らと共にエルサレムに巡礼に行った。帰路イエスがいないことに気づいた両親が必死に息子を探し回ると、イエスは神殿でラビ(律法学者)たちと対等に話し合っていたというエピソードが語られる。

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

「ルカによる福音書」を続けます。

 

イエスのような少年は、

けっこう何処にでも居て、

 

それぞれの地域でそれぞれの才で、

話題になったりそうでもなかったりと、

それぞれにそれぞれでもあったようです。

 

しかしながら、イエスのような少年を、

どのように扱うのかは

それぞれの地域のそれぞれのオトナたちで、

 

アタリマエに考えれば、人類史上、

多くのイエスのような少年を、

 

見出せなかったオトナの人間が、

見逃してしまったオトナの人間たちが、

 

人類の歴史を

動かしてしまったという構図が

浮かび上がってもくるのかも知れません。

 

「洗礼者ヨハネは終末が近いこと、悔い改めをすべきことを人々に説いて洗礼を授けていたが、イエスも自分の活動を始める前にヨハネのところへやってきて洗礼を受けた。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

洗礼者ヨハネと

12人の使徒の中の一人としてのヨハネ。

 

この二人?の関係がややこしいけれど、

もう一人のヨハネ

マルコによる福音書」の著者としての

ヨハネまで視野に入れるとなおさら

ややこしくなるので、

 

ここでは単純に

洗礼者ヨハネと

使徒ヨハネくらいの扱いで

 

十分ヨハネの

キリスト教内における立場は

理解できるような気もしないでも

ないようでいてさらには

 

そうでもないような気も

しないでもないような気も

しているのかそうでもないのかさえ

わからなくなってしまうような気に

さえなるのかならないのかも

 

わからなくなってしまうのかもしれません。

 

いずれにしろヨハネが

イエスを見出したのか、

ヨハネによりイエスが

導かれたのか、

 

いずれにしても、

ヨハネがキリストもとい

ヨハネがキリスト教において

 

唯一無二の存在であったことは

懐疑の余地さえ見出すことが

できなかったであろうことが

 

真実事実にあることに

間違いもなさそうな気も

しないでもないのかも知れません。

 

「この頃のユダ地方にはローマ帝国の支配の中で終末思想が広まり、メシア到来の期待が高まっていた。カリスマ的リーダーに率いられた小グループがあちらこちらに存在していたのだろう。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

現在の日本地方には自民党支配の中で

日本社会に嫌気がさし込み、

終末思想的思考が広まり、

 

メシア到来のもとい、メシア的「推し」

の到来を待ち望む気運が

高まっていた、

ともとれる文脈でもあります。

 

なので現在の日本社会においても、

似非カリスマ的似非リーダーを

「推し」とする小グループが

あちらこちらに存在していたのだろう

ともとれる内容でもある

のかも知れません。

 

「イエスはヨハネの親戚であるがヨハネのグループから別れた。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

どこの国にもどこの社会にもまた

どの組織にも、裏切り者はいるもので、

 

しかしながら、イエスとヨハネの場合、

裏切り者がユダヤ教徒であるかの如く、

あるいは裏切り者がユダという名の人

個人を指し示すのか、

 

そのあたりの解釈が、支離滅裂もとい

混沌ともとれる学術的論争は

絶え間なく続くようです。

 

なにが幸せかといえば

朝、ベッドから

起き上がれること。

 

起き上がりたくても

なんらかの事情で

起き上がれない人もいる。

 

なにが幸せかというと

朝食が摂れること。

 

なんらかの事情で、

朝食にありつけない人もいる。

 

幸せはどこにでも転がっている。

その幸せを見つけるのも

見逃してしまうのも

すべてはその人次第。

 

であるかのようにも

思われなくもないような気も

しないでもないのです。

 

ルカによる福音書

「ルカは今のトルコのアンティオキア(当時はローマ帝国内で第三の都市だった)出身の医師で、パウロによって改宗した後でパウロと共に伝道旅行をし、福音書と『使徒言行録(使徒行伝)を残した。

 すべての人──ユダヤ教徒とそうでない人も、ローマ人もまたそうでない人も──を対象に福音書を書き、イエスの行いを知らせた。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

僕の主治医はたいへん優秀なかたで、東京文京区と千代田区を跨ぐような地に病院を構えていらっしゃいます。

 

彼は早い時期から長年、家庭訪問医療の分野にも尽力され、その功績に着目した僕の元主治医である東大病院の医師たちが僕と彼とを引き寄せてくれたのです。

 

彼と僕の関係は医療(僕のガンについて、僕の余命について、僕の症状について)のことよりも世間一般の世間話にあたるような対話を中心に、

彼の医療や治療行為にあたる部分をも凌駕する時間を共にするというかたちで進められています。

 

偉大である彼に対してこのような話をすること自体がおこがましくもあるのですが、僕は最近、彼との時間において、妙にこの「ルカによる福音書」を想起してしまうのです。

 

医師と患者が最も近しい時代でもあった古代ローマの一シーンを僕は彼との時間の中で連想しているのかも知れません。

 

「イエスの誕生や少年時代について最もくわしい記述を残したルカは、実際に聖母マリアと親交があった人だといわれている。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

僕に残された時間、彼との時間において、僕のすべてを彼には語らせていただきたいとさえ思っています。

 

実際に彼は聖母マリアとは縁もゆかりもなさそうではあるけれど、もちろん僕の母とも親交があったわけでもない。

 

だからといっておこがましくもアタリマエに、僕がパウロであって彼がルカであるなどという連想もしたこともない。

 

彼と僕は診療というかたちで出会ったわけではあるけれど、

僕は彼にそれ以上を望みまた実際に彼との時間はなんだか禅問答のようで哲学対話のようでもあるような気もしないでもないとも思われるような気もしないでもないのかも知れないのです。

 

「この人だけがギリシャ語を母国語としていた人で、『マルコ』や『マタイ』の福音書をベースにして流暢なギリシャ語で書き下ろしたようだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

僕にとって僕の主治医だけが訪問家庭医療に尽力しており、ホームページ、パンフレット等にも流暢な言葉でわかりやすく書き記しているようだ。

 

「まず、イエスの親類にあたるとされるヨハネの誕生を天使が告げたことが書かれ、その後でやはり天使に受胎を告知された処女マリアは臨月だったヨハネの母エリザベトのもとを訪ねる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

まあなんともいいかげん、もとい、

なんとも曖昧、抽象的でもあるようです。

 

そもそもヨハネの誕生を

天使が告げるというくだりも

なんともいいかげん、もとい、

なんとも曖昧、抽象的でもあるようです。

 

ヨハネにかぎらず、だれかの誕生を、

医師とか看護師、助産師あたりが

告げるというならいざ知らず、

 

天使が告げたというから

あきれてしまう、もとい、

懐疑を生んでしまうようです。

 

天使って?

天使って、だれ?

てなもんで、

 

ほとんどの人間が、

会ったことも見たことも

ないような天使と

言われたところで、

 

こちらとしては、

「ふぅーん」くらいしか

あいづちのうちようも

ないともあるとも

いえぬような気も

しないでもないのです。

 

「当時のローマが帝国の人口調査を好んでしたのは事実らしい。ともかく人口調査のために、父親ヨセフはナザレから生まれた町ベツレヘム(ダビデと同じ)に臨月の妻マリアを同行し、そのためにイエスはベツレヘムで生まれた。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

人生の目的を

どこに置くのかで

その人生は

確定していくのかも知れません。

 

人生の目的を

安寧・平和・安心・平等・公平

等々に置けば、

 

これはもう

自然の範疇に属するので、

 

その目的はやがて達成

されるものであると考えても、

なんら問題もないようです。

 

しかしながら、その目的の中に

おカネ儲け、虚飾虚栄等々も

含まれてしまっているのであれば、

 

その目的は、

自然界の範疇を

逸脱してしまっているので、

 

その目的も、

達成不可であったり、

 

たとえ達成されたとしても、

その目的が自然界の範疇から

逸脱してしまっているからこそ、

 

その目的が達成されたとしても、

そこに安寧も安心も平和も平等も

訪れることはないとも考えられるような

気もしないでもないのです。

 

「マルコ福音書」にはイエスのなした癒しや悪魔祓いの記録が出てくる。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

人々を癒すことは、

神であっても人としても、

善なることと思われます。

 

が、悪魔祓いとなると、

これはもう特定の時代の

特定の地域の特定の人々に対して、

 

神だか悪魔自身であるのか、

人であるのか神であるのか、

あげくのはてにはその、

神の使いまたはしもべであったりと、

 

まあじつに抽象的でいいかげん、

失礼、じつに抽象的で曖昧、

 

悪魔祓いが必要なのかそうでもないのか、

悪魔祓い事態にどのような意味合いが、

含まれているのか。

 

マルコ福音書にかぎらず、

新約聖書には抽象的で曖昧な

語彙が多いと考えられます。

 

「同じように、『しもべ』は『神の僕』であると同時に他の人々に仕える『しもべ』でもある。

 人は自分に他の人よりも大きく強い部分があれば、それを小さく弱い人々に捧げなくてはならない。

 だからすべての人に仕える者は最も大きく強い者である。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

この部分はほんとうに

素敵な文節であると考えます。

 

人に尽くす、他者を大切に、

 

自己を捨て去り他者を

慮(おもんばか)る生き方は、

 

誰であろうと誰から見ても、

清々しく潔く、

素敵な生き方で

あるとも思われなくもないのです。

 

「イエスはこの明解で単純な生き方を、『愛』として表現し、惜しみなく与え続けた。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

こうなるともう福音書は、

まるで仏教あるいはモンテーニュ、

または「プラトンの対話篇」にも似た学問的

崇高ささえ感じさせる書物で

あるといっても過言でも

ないようにさえ思われてしまいます。

 

「イエスのカリスマ性に魅せられた人の多くは、反ローマの革命勢力としてのイエスの活躍を期待していた。メシアとは敵を破ってユダヤ人を開放する華々しい救いをもたらす存在であると想像していたのだ。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

この時点でキリスト教は

新興宗教でありながらも、

 

旧約聖書つまりはユダヤ教

あるいはユダヤ人のための、

メシア、つまりは救済、

あるいは救世主であり、

 

ローマ体制を打破する

革命的思想家としての

イエスを前面に

打ち出していたとも考えられます。

 

「この福音書の15章にローマ総督がイエスに何の罪も見出せなかったのにユダヤ人の要求でイエスを十字架にかけたとあるのは、ローマ人への宣教を意識して書かれたからだろう。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)

 

こうなるともう、

キリスト教なるものは、

新興宗教としての自らの

地位を維持するためには、

 

あるいは、一新興宗教が、

生き残るためには、

もはやキリストでもイエスでも

なんでもよくて、

 

なんなら旧約聖書さえ

どうでもよくなって、

 

福音書を利用して、

ローマつまりはローマ人たちの

支持あるいは信仰を

獲得するためには、

 

ここはひとつ、

ローマ総督を善人として、

ユダヤ人を悪人として

扱った方が、

 

信者を集めるためには、

信者を増やすためには、

 

マーケティング的にも

正しい戦略であると

考えられていたようなふしが

あちこちに見受けられるのです。

 

「この記述(マルコ福音書15章)が結果的に、キリスト教がユダヤ世界から切り離されてローマ世界に広がっていくのを助けたが、同時に現代までつづくヨーロッパ世界の反ユダヤ主義も生んでしまった。」

(「キリスト教入門」講談社学術文庫)