雨の日曜日には、特別な静寂が
プレゼントされているようです。
車両騒音、とくに、無駄なバイクや、
無駄な四輪車の、バカげた騒音が消え失せ、
ソローのいう哲学的閃きが、
天から降りてくるようにも思われなくもないのです。
「ソロー 1」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12492974714.html
デカルトがいうように、
「すべての学問は哲学の樹の枝葉である」
ようにも考えられます。
逆をいうなら、
「すべての学問を修めた思考こそが哲学である」
ともいえるような気もしないでもないのです。
「ルネ・デカルト 1」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12765058811.html
これからこの社会で
生き抜かなければなれない人々にとっては、
さぞ生き難い時代に
生まれてしまったとも考えられます。
僕ができることはココに記すくらいのことで、
たいしてお役に立てるとも思わないけど、
自分自身の死を目前にして、
全身全霊で、嘘偽りのない気持ちとして、
心からみなさんを応援したいと願っているようです。
「別離の経験、暴力的場面との遭遇、単調すぎる時間への気づきといったものは、こころの深い傷やショックとなりうる。そこから書物を読むという経験が、自己の置かれた状況を相対化し、存在していない真の生を待ち望みつつ生きることを可能にする。」
(〈非在〉のエティカ/東京大学出版会)
哲学は、書物を
読んだ経験から得る様々な情動を、
神聖化、論理化、合理化、実践化する学問
であるといえるのかも知れません。
様々な実体験と、様々な書物から得た
知識と経験のその先に何があるのか、
その完結を哲学は見出す学問
であるような気もしないでもないのです。
「何かから何かを被(こうむ)り、受苦する経験が思考の、論理の出発点となっている。」
(〈非在〉のエティカ/東京大学出版会)
悲しみを知る人だけが、
真の幸せを知ることができ、
苦しみを知る人だけが、
真実の真理を見出すことができる
のかも知れません。
「思考とは、パトス(受苦・身悶え・共苦)をとおして、言葉にならぬものやことばになり損ねたものの痕跡をとおして、ひとの原基たる弱さ・脆さ・ままならなさをとおして、〈非在〉の在り処を『要請』する途上で結びつくものである。」
(〈非在〉のエティカ/東京大学出版会)
ものを考えるということは、
悲しみや苦しみをとおして、あるいは、
言葉にならない悲しみや、
言葉にできそうでできない情動をとおして、
または人の本性に由来する弱さ、脆さ、
ままならぬものごとをとおして、
それら在るのに見えない「非在」の存在を
認めようという精神から「要請」された感情を
つきつめてゆく過程で結論づけられる
思考のことかなのかなぁとも考えられます。
「エティカ(倫理)とは、エートス(人倫・居住・居場所)に由来することであることを最大限汲み取りながら、その「要請」を〈非在〉のエティカと呼ぶことにしよう。」
(〈非在〉のエティカ/東京大学出版会)
人が生き、住み、存在するということを、
正義・美徳悪徳・倫理・論理的に
考えるというリクエストに
お応えしてなのかどうかはわからないけど、
言葉にできない悲しみ、苦しみという
存在しているのに目に見えない「非在」の受苦を
〈非在〉のエティカと呼ぶことにするそうです。
「エティカ」はスピノザの著作。
「エティカ18」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12775863596.html