ルネ・デカルト 1 | コラム・インテリジェンス

コラム・インテリジェンス

透き通るような…心が…ほしい

 人は台風被害を

 個別に被災者の

 現状・実状・心情に

 はせて思う時、

 

 神はいるのか、運不運、

 善悪、美徳・悪徳についても

 思考を巡らすのが

 自然であるのかも知れません。

 

 そしてその自然に目覚めた時、

 被災者の現況と、

 

 金持ちびいきの、金権まみれの、

 政党・政治家に

 賛同・応援・投票する人、

 および政治家御本人に、

 

 人としての義憤を感じてしまうのも、

 自然であるのかも知れません。

 

「真理を追究するのなら、すべてのものについて、一生に一度は、できるかぎり疑うべきである。」
(「哲学原理」デカルト)

 

 自分の人生を

 知りたいのなら、

 自分の人生とは

 何なのかを知りたいのなら、

 自分とは何か?

 

その真理を知るためには、

まず最初に

すべてのものについて、

できるかぎり疑ってみること

ということなのかも知れません。

 

正義は正しいのか、

法律は正しいのか、

正しいことが正しいことであるのか、

正しいことがそれほど重要なのであろうか、

人間はその真理に堪えうる生き物であるのか、

人間はそれほどの生き物なのかどうか、

 

懐疑主義哲学者は、

疑うことから始めて、

一つの哲学体系に

辿り着くことが

できたのだと考えています。

 

「ピュロンが誰よりも実質的に、かつ顕著に懐疑考察に専心したと思われるところから『ピュロン主義』とも呼ばれている。」

(「ピュロン主義哲学概要」セクストス)

───西洋古典叢書───京都大学学術出版会───

 

「ピュロン主義哲学1」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12634553283.html

 

 探究と省察を繰り返すこと

 そのものが哲学である

 といっても過言ではない

 とも思われなくもないのです。

 

 一生に一度といわず、

 見るもの聞くものすべてを

 疑ってかかって、

 省察と思索を

 繰り返しつづけてもなお、

 

 人生の真理、

 真理の素晴らしさを

 見出すことが

 できるのかどうかさえ、

 危ぶまれるほどに、

 

 真理とは、奥深い、

 危険をはらんでいる実態

 ではないかと思われます。