都知事選の論点のひとつに
少子化問題を掲げ、
各立候補者も有識者も
これを抜本的経済支援等々と
結びつける議論はお盛んですが、
議論をするのなら、なにも
抜本的などと大上段にすべった
ころんだちょうちんだなどと
小難しそうに振りかざさなくても、
根本的人間のありかた、および
根本的な善行と悪行、悪徳との違いとか、
善行と幸福、悪徳の不浄等々が、抜本的に、
議論されてもよさそうなものであるようにも
思われたりもそうでもなかったりして、
あきれたりあきらめきれなかったりで、
なんだかわけもわからなそうな事態ではあるようです。
「摂理のうちに己を保持しているときには、人間の精神は必ずやより自由である。」
(「哲学のなぐさめ」ボラティウス/京都大学学術出版会)
人間の本性が、
衣食住の獲得と
知的肉体的欲望くらいで、
バランスよく満足しているうちは、
自然の摂理に調和して、
我々の精神もある程度の自由を
保持し続けられるようです。
「なんらかへの隷属状態は、魂が諸々の悪徳に侵食され、固有の理性の所有から陥落するときである。」
(「哲学のなぐさめ」ボラティウス/京都大学学術出版会)
なにかにとらわれる、
なにかにこだわるという状態は、
なにかに
隷属してしまっている状態であるのか
とも考えられます。
金銭、物品、地位、名誉、愛欲、
虚栄、虚飾、健康、美容等々への固執、
社会的隷属は我々の精神を蝕み、
我々は悪徳の誘惑にさらされ、
やがては我々が我々独自の、
それぞれの理性をも手放してしまう
可能性もあるようです。
フィロソフィア(哲学の女神)「摂理・真理は、あなたがたの誰によっても、けっして十分に入念に、かつしっかりと解明されたことはなく、解明されることもないのです。」
(「哲学のなぐさめ」ボラティウス/京都大学学術出版会)
科学者であろうと、医者であろうと、
法律家も裁判官も、ましてや〇〇の専門家
などと謳っている人々も、
十分にかつしっかりと
解明されてもいない問題にたいして、
ああでもないこうでもないと謳い、
あげくのはてには、
それがすべった転んだ提灯だなどと
まあ、いけしゃあしゃあと謳ってはいるけれど、
どれもこれもがまやかし、
己を知らぬ人々の遠吠えにしか
聞こえない場合もあるような気も、
しないでもないようです。
なにが正しくて何が間違いなのか、
その判決は、騙る人の正誤よりも、
それを受け取る側の才に対応して、
把握されるのかとも思われます。
著名人、有名人、と
世間が謳うおバカを信じるのか
無名の才気に感銘を受けるのかはすべて、
我々の才能にかかっているようです。
「認識されるものはすべて、そのもの自体の力量ではなく、認識する人たちの能力に応じて把握される。」
(「哲学のなぐさめ」ボラティウス/京都大学学術出版会)