頑張るという情動は、
頑張ったというその情動だけで、
その結果に関係なく、もれなく、
達成感というプレゼントが
ついてくるようです。
人生で、もっとも手軽に、
しかももっとも有意義に、
あわよくば結果という報償まで
手に入れることができる頑張るという情動は、
ある意味、神が人類に授けてくれた最上の
プレゼントであるのかも知れません。
しかも、頑張っている人を見ると、
周囲にまでその快楽が伝染して、
より多くの人々にも、その快楽を
分け与えているとも考えられるのです。
今回、僕は、ありがたいことにそのことを、
頑張る福祉介護士から、いやというほど、
学ばせていただいているのです。
「険しいと見られる道はすべて、鍛錬しているか矯正しているか、さもなければ罰しているのだ。」
(「哲学のなぐさめ」ボラティウス/京都大学学術出版会)
我々が不運にあるとき、
我々が不幸に陥ってしまっているとき、
そのときこそ、
我々は、その要因・原因を考えさせられ、
分析し解析し打開策を
思考するという訓練の時期であり、
運命とはなにか、幸不幸とは、人生とは、
人間とは何かを洞察すべきであり、
我々の怠慢が矯正されるべき時期であり、
そうでなければ天が我々を
罰していると解釈するのが
妥当であるのかも知れません。
「最後の労苦は緩むことなどなく、ひるがえれば最後の労苦の見返りは、天にふさわしいとされることだったのだ。さあ行きなさい、強きひとたちよ、気高い偉大なる道の導くところへ。」
(「哲学のなぐさめ」ボラティウス/京都大学学術出版会)
人生の最後に死を迎えるということは、
緩い手軽な労苦ではないだろうけど、
それは生前の一切すべてを
その労苦に代えて耐えることにより、
我々を天にふさわしいものとしてくれる
ということなのでしょう。
そしてそれは気高く偉大なる道への
試金石ともなっているのかも知れません。
「ティグリスとユーフラテスが、一つなる水源からほとばしり、やがて水流は分かれて離れ離れになるが、行き合い再びまた一つの流れへと呼び戻される。」
(「哲学のなぐさめ」ボラティウス/京都大学学術出版会)
すべての物事は摂理という源から放たれ、
知と無知と、幸不幸の運命の流れに分かれるが、
やがてはまた元の一つの摂理によって
その運命も、定められていくようです。
僕は神という概念はわかれないけど、
天地、大地、宇宙、地球、自然なら
理解できるので、
僕にとっての神という概念は、
天の摂理、自然の摂理として
受け止めています。
天の摂理は天変地変、異常気象、
必然なる偶然の事象等々ももたらしますが、
それを幸不幸へと導くものは、
我々の賢知と無知によって定められた
運命という名の審判であるのかとも
考えられなくもないのです。
「混じり合った流れは、偶発的にあの様この様を示し、それらあちこちする偶然を、それでもまさに大地の勾配こそが、流れ下る秩序を支配する。
偶然は秩序を破り、法則によって進んでいる。」
(「哲学のなぐさめ」ボラティウス/京都大学学術出版会)