ITがどうのこうの、
ITが悪いとか提灯であるとかの、
議論ではなく、
世の中に
過度に信用できる真実事実は、
ありえないのではないかという
懐疑主義的スタンスを
持ち続けることが
大切であるのかとも思われます。
「ピュロン主義的懐疑主義哲学1」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12634553283.html
SNSとか
滑った転んだとかで、
何でも言ったり
やったりしてもよい
というのでもなく、
なんでもかんでもIT、
あれもこれもIT
というのではなく、
ITもアナログも、
先人が残した知恵も、
倫理も道徳も現代科学も、
バランスよく、
考えていく力こそ、
重要になってくるのかとも
考えられるような、
気もしないでもないのです。
「現場をとらえなければ、悪事を働いたことがまったく信じられないような人もいるが、だが、悪事を働いているところを見て、我々がびっくりするような人はどこにもいない。」
(「箴言」ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世)
人の欠点を
見つけてしまったからといって、
人の悪事を
目撃してしまったからといって、
けっして
驚いてはいけない、
ということのようです。
人は、
欠点があるのがアタリマエ、
悪事を働くのもアタリマエ、
というくらいのスタンスで、
人を観察するのが
肝要であるというようにも
考えられなくもないのです。
「利口ぶりたい人間は、たいてい利口にはならない。」
(「箴言」ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世)
利口になりたい、あるいは、
利口でいたい、
利口になるための努力を
惜しまない、とか、
利口でありたいがために、
日夜、切磋琢磨し、
それを続けることに
なんら不思議も迷いも
感じないという人間は、
万が一、または、時には、
利口になれることも
可能であるようにも、
考えられもするのかとも思われます。
「紳士たちの視線にあえて自分をさらし続ける事、それこそ紳士たる条件である。」
(「箴言」ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世)
相手が
紳士であろうとなかろうと、
あえて自分をさらけだし続ける、
いっさいの虚栄や虚飾とは
無関心でいられることも、
紳士、いや、真摯であると、
考えられます。
「愚かな人間のなかには、自分の愚かさをよく知っており、それを巧みに使いこなす者もいる。」
(「箴言」ラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世)
ここまでくれば、
もはや愚かではなく、
むしろ賢いやつ、
ということであるような、
気もしないでもないのです。