枯葉を踏む音
風情な音色ではあるけれど、
枯葉を踏んで歩く我々の、
どこかに
罪悪感はないだろうか。
我々は塵で塵に帰る。
銀杏の葉の生命が終り、
静かに塵に帰るその瞬間
我々はただ騒がしい音を
たてているだけなのかも知れません。
銀杏の樹は
我々に大きな命題を
与えてくれているような
気もしないでもないのです。
「希望とは、不安定な喜びである。
すなわちそれは、その結末について我々がある程度疑念をいだくような未来、あるいは過去のものの観念から生じてくる。」
(「エティカ」スピノザ)
希望とは
儚いもののようです。
過去の、
経験とか知識、
それらから生じてきた観念、
これが希望の主な敗因いや、
要因となる場合も
あるのかも知れません。
そして誰もが知っている。
希望の情景は、
誰もが疑い、自信もなく、
我々は我々自身の希望に
いつもある程度、
疑念をもっている
ということなのかも知れません。
「恐れとは、不安定な悲しみである。
すなわちそれは、その結末について我々がある程度疑念をいだくような未来、あるいは過去のものの観念から生じている。」
(「エティカ」スピノザ)
恐れも希望も紙一重。
スピノザは言葉遊びが過ぎる
ようにも思われます。
希望と恐れについて、
いや、すべての物事の
云々についても、
個人的に、
スピノザは、
プラトン、ソクラテス、
そして僕の
最も敬愛するソフィストである
プロタゴラス等から比べて、
いくらか知性感性頭脳的に
劣ると考えていたりもします。
──「プロタゴラス対話篇」プラトン──
「ヒエロス・ロコス 1」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12560751179.html
先の哲人たちに比べ、
キリスト教浸透以降の
学者たちは、すべてにおいて
おおむね劣ってきたのかな
とも思われなくもないのかも知れません。