「死ぬとは何かということを我々は知らないのだから、生きるとは何かということもじつは知らないのである。」
(「考える日々」池田晶子)
それでもココの読者はじつは
生きるとは何かということも
知っているのかとも思われます。
死とは何か、死とは、我々が、
その場所から、おいとまするだけ。
面白くもないパーティー会場から、
ようやく抜け出すチャンスが
巡ってきただけ。
パーティーはそれなりに、
自分なりに
十分楽しませて頂いたので、
もうこれ以上、
ここにいるのは無理、くらいの
情動であるのかとも思われるのです。
「賢い人とは、死が穏やかな世界への旅立ちだと信じられる人である。
だから、彼は、死が近づいてもあわてふためくことがない。」
(「老年について」キケロ)
「エピキュリアン1」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12688762622.html
エピキュリアンは御存知、
哲人エピクロスの思想を受け継ぐ人々。
「知らないにもかかわらず、なぜ我々はそれを知っていることであるかのように生きているのか、生きようとするのか。
生きるとはいったいどういうことなのか。それを考えることを『考える』というのです。または『哲学』と言ってもかまわない。」
(「考える日々」池田晶子)
いつのまにか、
死について考えることが
恥ずかしいことや
恐ろしいことであるかのように、
勘違いの風潮が
定着してしまったようです。
これもあれも、
すべては他者の視線を
気にし過ぎる風潮が源流に
できてしまっているせいで
あるのかとも思われます。
他者の視線を
気にしている暇があるのなら、
己磨き、
まだやってないこと、してないこと、
人生という履修学科の
宿題は山積みであるはずです。
「この介護者の語りからは
『相互行為』の有効的関係が垣間見える。」
(「死生学」東京大学出版会)
「生と死の学問30」
https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12702085576.html
いつでもだれでも、介護者になる
可能性も大であるとも思われます。
人はいつどこで、自分が何になるのかは、
誰にもわからないようにも考えられるからです。
「生活は生活で誰もが大変なことである。しかし、生活が大変なのは、必ずしも社会のせいではない。それは自分が生存しているからである。したがって、生存すなわち存在とはなにか。
こういう筋道によって、考えるということは開けていくのである。生活するために考えるのではない。生活するとはどういうことかと考えるのだ。」
(「考える日々」池田晶子)