エピキュリアン1 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような…心が…ほしい

 原因・理由がわからずに

 体調が悪いなどという時、

 その真の原因・理由は天候であったり地形・土壌その他自然的環境に依存しているという場合も多いようです。

 我々は自然と共に生きている。

 それを忘れれば、何かしらの問題が生じるものとも考えられるのです。

 

 コロナ禍、

 様々な議論があっての東京パラ・オリ。

 しかしながら天の答えは否であったのかも知れません。

 天の不機嫌は台風&地震となって現れているのかも知れないのです。

 

・・・さて、エピキュリアン・・・。

 

 エピキュリアンとは、古代ギリシャにおいて、

 紀元前300年~200年ころ、

 自然主義・快楽主義で知られる哲学者エピクロスを信奉して、共に学んだ人々と後にその思想を信奉し継承・実践している人々のことを称して語られるようです。

 

 エピキュリアンたちも、

 古代オリンピック≒オリンピアの祭典は

 楽しんでいたのかも知れませんね。

 

 「エピュキュリアンな現代人」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12534120743.html

 

 エピクロスは、

 エピキュリアン=エピクロス派哲学の始祖で

 古代ギリシャ・ヘレニズム期の大哲学者。

 

「至福な不死の者は、彼自身、煩(わずら)い事を持たないし、

 また、他のものにそれを与えもしない。

 したがって、怒りだの愛顧だのによって動揺させられることもない。というのは、このようなことはみな、弱者にのみ属するところだから。」

 (「主要教説」エピクロス)

 

 賢者とは、

 煩わしいことを避け、

 また、他者を煩わすようなことも避ける。

 

 なので賢者とは、

 怒り狂うようなこともないし、愛に執着してしまうこともなく、常に冷静・平静を保つように、自らを律する人のことだと考えます。

 というのは、へんに怒り狂ったり、へんに愛情を押し売りするような情動は、己というものを持たない弱い人、人生を右往左往しているような、チャラくて常に群れているような弱者だけの属性であるとも思われるからなのです。

 

「死は我々にとって何ものでもない。

 なぜなら、死は生物の原子的要素の分解であるが、分解したものは感覚をもたない。

 然るに、感覚をもたないものは我々にとって何ものでもないからである。」

 (「主要教説」エピクロス)

 

 そんなことはわかっている。

 わかっているけど、

 死とは何か?ということも未だ哲学的命題として残されているのも現実であるようです。

 が、エピクロスの時代、

 紀元前に原始的要素という視点をもつことは、

 かなり斬新な思考であったようにも思われます。

 

「賢い人とは、

 死が穏やかな世界への旅立ちだと信じられる人である。

 だから、彼は、死が近づいてもあわてふためくことがない。」

 (「老年について」キケロ)

 

「ゼノン 8」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12571103652.html

 

「思慮深く楽しく正しく生きることなしには、快く生きることもできず、

 快く生きることなしには、思慮深く楽しく正しく生きることもできない。

 快く生きるということのない人は、思慮深く楽しく正しく生きない。

 思慮深く楽しく正しく生きることのない人は、快く生きることができないのである。」

 (「主要教説」エピクロス)