生と死の学問26 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような…心が…ほしい

 半袖か、長袖か、

 上着を着るのか持参かいらないか、

 そのような選択には当コラム「ジャッジ&チョイス」が役立つかも知れないけど、本項である「生と死の学問」は、そのような選択にはまったく役に立たないようにも思われます。

 

「読書の知識を極めれば、実生活において人間・動植物の誕生・成長・老化・死の多くを体現することと同様に、深層意識においてのプロセスとして、加齢と死をあるべき自然として情動的に受け入れられるのであろう。」

 (「死生学」東京大学出版会)

 

半端な知識と経験では到達できない情動も、

多くの良書を熟読することで万物のプロセスを学べば、

加齢と死もあるべき自然として受け止めることも可能であるのかも知れません。

 

半端な知識と経験では、

表層意識で営まれる論理と思考を向上させるくらいの効果しか望めないのに対し、

 

多くの良書を熟読し、

読書の知識を極めれば、

表層意識だけではなく深層意識の世界においても、自分を向上させることができるということなのかも知れません。

 

「タナトロジー(死生学)とは、第一義的には死への教育であるが、学術的には社会学もこの研究に参加することが期待された。

 しかしながら、社会学の方でそうした期待に十分応えることができなかったので、タナトロジーの研究は、理論的な面では哲学者によって、応用的な面では医療現場の人々によって支えられてきたのである。」

 (「死生学」東京大学出版会)

 

 我が国の教育体制で、

 社会学、社会科、公民科等々と呼ばれる学科は、

 人間がどう生きてどう死んでいくのか、

 人間とは?死とは?という命題に対して突っ込んだ探究、議論を尽くすような体制も出来上がらなかったから、

 我々は独自に、個々に、

  ココでは当コラムにおいて、

 いっしょに学んでいく以外に、その答えに到達することができない、というのが現状であるようです。

 

『ところがそうした、「生の社会学」のなかでも、近年、「死と隣り合わせの生」への関心を喚起するような動きも出ている。

 「死と生の研究」としての死生学と社会学との関係も強まってきている。』

 (「死生学」東京大学出版会)

 

 当コラムの読者の方々にとっても、

 いまさら感はぬぐえないのかも知れません。

 

『1995年の阪神淡路大震災の時には、社会的弱者にある人々の生死の問題が提起された。

 被災者の中では社会階層の低い人や障害者の被害がとりわけ大きく、負傷したり死亡したりする確率もこれらの人々の間でとりわけ高かった。

 また復興期の仮説住宅のなかでも、そういった立場に置かれた人々がとくに苦しい状況におかれた。

 従来の社会学はどちらかというと自立した強い市民像を前提としてきた。

 しかし震災を契機とした「人間の弱さ」の再発見は、弱い立場にある多様な人々から成り立つ市民像の生成を促したのである。

 そこでの「生」は当然「死」と隣り合わせである。』

 (「死生学」東京大学出版会)