親鸞6 | コラム・インテリジェンス

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透き通るような心が…ほしい…。

「善人でさえも、なお、往生をとげることができる。

 だから、悪人の往生は、もう、言うも愚かなほど、決まりきったことなのである。」

(「歎異抄/第三章」親鸞)

 

人は誰でも生まれながらにして

悪とか罪を背負っているという神学的思想の確認を

親鸞は改めて求めているのかも知れません。

 

 そのフィシス的思考、

つまりは、自然界にあっては動物も植物も人間も、生きるためには誰かの何かの犠牲を強いる生命体であり、それが罪という考え方を覆して、なんとか罪を逃れようと、善行を積み重ねようとする人々こそノモス的であり、

 ノモスが往生をとげられるのであるのなら、

 フィシスはなおのこと、往生できるというのがアタリマエなのである、という親鸞独自の鋭察といえるのかとも思われます。

 

フィシス──自然の摂理論理、宇宙法則、自然本性理性

ノモス──人間の勝手な法と秩序、人間の勝手な論理倫理

 

「早世の天才パスカル『パンセ』22」

https://ameblo.jp/column-antithesis/entry-12585300680.html

 

「ところが、どうしたことか、世の人々は誰もがこう言っている。

『悪人だって往生するのだ。まして、善人の往生は疑いない。』と。

 この言い方には、一応、如何にも理由があるようにみえるが、実のところ、これこそは本願他力によって人は救われるという根本的な主旨に反したものである。」

(「歎異抄/第三章」親鸞)

 

 親鸞から見れば、世の中には自分が愚かであるということに気付かぬ愚かな人が多すぎるようです。

 自分の行いいかんによっては自力本願、神的、フィシス的力を軽く見て、ノモスの力によって往生できると思い込んでいる愚か者は、親鸞の説く他力本願の意味を理解していないということなのかも知れません。

 

「なぜかというと、自力で善の行いを積み重ねようと志す人は、一途に他力を頼りおし通す心に欠けてしまうので、どうしても弥陀の本願からはずれざるを得ない。」

(「歎異抄/第三章」親鸞)

 

弥陀は常に万人を救おうとして下さっている。

それに感謝する心こそ南無妙法蓮華経・南無阿弥陀仏。

自力を過信してしまう人は弥陀の本願を重く見ることを忘れ、どこまでも弥陀を頼りの感謝の心を忘れ、知らず知らずのうちに傲慢という大罪を犯してしまう。

 

「しかし、たとえそのような人であろうとも、自力に頼る心をすぐさま改め、もっぱら他力を頼みとすることができるようになるなら、やはり真実の浄土に往生をとげることができるのである。」

(「歎異抄/第三章」親鸞)

 

世の中には自分の力ではどうすることもできぬことがある。

どうすることもI cannot or we cannot の世界観ですね。

 

フィシスの力を、宇宙摂理論理、自然真理倫理を信じ、

ノモスに偏らぬ人生が望まれているのかも知れません。

 

南無妙法蓮華経、南無阿弥陀仏。