こんにちは あおしゆうです

 

この暑い中 頑張っている 闘病の方

 

精神病にも 季節 気候によって

 

良くなる 悪くなる

 

そんな 時があるし 私は 突然風邪にかかりました

 

治った時から 食事は おいしいです

 

ということと 五感 が 最後は

 

嗅覚の回復 だけとなりまいした

 

いままで 味覚が 発達していなくて

 

おいしいが 解らない と 感じていて

 

ようやく おいしいが 解りました

 

とっても 楽しいです 食事が そして

 

その時の 雰囲気が とっても おいしさになる

 

などなど 楽しみが 湧き そして 残るは

 

嗅覚となりました こんな 初心者 人間初心者

 

な 精神障害者 統合失調症 との 付き合いから

 

今回も 書きたいと思います

 

何分 人に対して 慣れのない 日々を 過ごしてきた

 

いま 生活も 仕事も 自立しているけれど

 

ここ 3年前は まだまだ 一年のうち 3か月は

 

入院していました

 

そう考えると 今の 状態が とっても 

 

理想である そうとも 思います

 

なにより ハローワークで お仕事を 探す時

 

仕事と生活の両立できますか?

 

と言われて 何も 返せなかったです

 

それに その時は 就労移行事業所に

 

1年半 通って その先を 探している 時でした

 

私には 確信を持てる 力が無い

 

そして 家族の 傍らで 笑顔でいる

 

そんな 試練がありました

 

それだけではない あがり症や 疲れやすさ

 

なに一つ できていないと

 

自分に 自信が ありませんでした

 

今になって タロット占いや ハンドメイドをして

 

なおかつ トールペイント 勉強中など

 

やりながらでも B型事業所の 仕事をしていますし

 

生活保護 そして 支援があるけれど

 

生活は 自立している この 時に

 

すがすがしさを 感じています

 

慣れる し 成れる

 

その 一つの 成功を 言える そんな今でもあります

 

今 しんどいよね とか

 

ゆっくりしていいよ とか

 

いったい どのタイミングで 言う事や

 

言うタイミングとか どうすればいい?

 

という 現実 支えたいとか 言ってあげたい

 

という言葉を そのまま 受け取ってほしいという時の

 

タイミング および こじれない 言い方など

 

私自身も 受けて ストレートに ありがとうと

 

言える時もあれば ありがたみ 50%で 受け取る時など

 

心の中を いま その時の事を 思い出すと

 

なんて 鋭い 刃物なんだと 少し ショックと

 

怖さも 感じました

 

多分 大丈夫 と思って 言葉を かける

 

そんな 配慮をしていただいていたんだ って

 

思うと こんなに 回復したのは

 

諦めない 私だけではない

 

諦めない 周りの方の支援があるから

 

回復したと 感謝しています

 

本人に 直接的ではない 関りも あるでしょうし

 

見ていて 苦しむ人に 優しい言葉を かけられる

 

その こころの 優しい方って

 

きっと いらっしゃるし その道のプロだとか

 

お仕事を されている方に

 

お任せする ことで 乗り越えらえる

 

そのような 社会でもあり

 

その形態もある なにより 相談する窓口が

 

多くなったことも ありますが

 

ご本人には どう伝わっているのか

 

私が 当事者である ことから 本当の暖かい言葉として

 

素直に受け取る時と

 

そこから その人にとって どうなるのかを

 

書きたいと思います

 

一番身近な 親族では 親 父親 母親 おじいさん おばあさん

 

という 年輩の方からの 見方とか

 

経験とかで 何とかしてあげたい と 思う時って

 

あると思います

 

私は 17歳で 発病し そこから 20年

 

子どもも いたとしたら 大きいですね

 

な年齢を 超えて そこから の回答でもあるのですが

 

親の言葉ほど 届かないものはない というのが

 

現実です けれど そこから どこへも行こうとはしない

 

どんどん 疲れるまで 話すことも めんどくさくなり

 

最後は 口をつけば 喧嘩になる

 

私の 場合は そうでした

 

特に 母親は 責任を 感じてか 強くなるばかりで

 

気を使って 聞いている私も

 

親によって くじかれることは 多かったです

 

なんでもない どこにでもいる 親子

 

そう 母と 私は そうでした

 

これも 20年かかって 恨みが無くなり

 

そして 一人で歩くときが 来たのでしょう

 

今になると 私が 何を 思っていたのかを

 

ちょっと 書けるので 参考にしてください

 

確かに 親は 生活を守り そして 子供を守っている

 

けれど 子供は もう 大人なんだよって

 

いつ 言えるの?

 

と 私は タイミングを 見ていましたが

 

それは 最後の最後まで 届きませんし 届くものではない

 

そう 落としどころを付けた時

 

これまでの 優しい言葉に 思い出しては

 

涙することもあります

 

素直にありがとう て 何で言えなかったのか

 

後悔先に立たずですよね

 

なので 上手く言う 上手く付き合う

 

悲しかった 結果を どうか 上手く 利用してください

 

私が 主治医に会う事や 主治医なら言える という 現実も

 

ありました やはり スペシャリストの 精神科のお医者さんは

 

別格です とっても 甘えてさせていただいたし

 

何でも 協力者でした

 

頭がいいとか 経験とかで とっても

 

都合よく 言いたい事を 言える あるがまま 言える

 

そこに 全てがかかっていました

 

けれど 家族には 通じないと 感じている方っていると思います

 

お医者さんのように それでは 食べていくことが無いうえ

 

それぞれに お仕事がある ある日 気づくと

 

親は もう 50歳ぐらい 60歳ぐらいになる時には

 

出来上がった 人間でした

 

そして そうとしか 見えない自分と 

 

子どもとして 子供という 立場を 利用して

 

甘えることには ピカイチでした

 

けれど 私も40歳となると 当時

 

発病した 時の年の時 親は 40代だった

 

そう 計算する そんな時には

 

恨みなど 何も無いです

 

これは 上手くいったからであって

 

そうではないと 思うかもしれませんが

 

タイミングで 言葉を 交わす時に

 

信頼もできて 素直になることもある 

 

そう 促すことを 学んでいると

 

トラブルも 少なくなる そう 思ってもらっていいです

 

あるがままに 受け入れるとか

 

自分には 責任がある と 厳しくする ことは

 

案外 無いと思います

 

統合失調症で 辛いのは できない自分に 

 

腹を立てることです

 

そして やる気がなくなる 頑張る気が無くなる

 

それも 長く長い旅の中 治るのも

 

すぐではない

 

そう 心の中では 覚悟は できている 賢い当事者さんは多いです

 

私も メンタルだけで言えば 当時 17歳で

 

親をもしのぐ 強さが ありましたが それが

 

折れてしまい 発病しました

 

誰より 限界を知った時でもあります

 

そこから 頭は 子供帰りをしていて

 

親的には また 手で抱えるほど 愛しいと

 

思う いままでが 非常だったことも

 

許しあえた時でした

 

けれど これが そこから 20年もの間

 

ずっといられたかというと そうではないです

 

どんどん 年をとって 25歳 30歳 となると

 

できないことがある そのことにも だんだん 腹が立ちます

 

自分は いつの間にか 親の事など

 

オートマ や 流れ作業 のように

 

飽きてきていました

 

そこで 入院し そして 退院し

 

その繰り返しです なので 心から 感謝など

 

決別してから でした

 

そう 思いなおしたきっかけは 割り切ったからです

 

結果 プラスが 生まれていた 

 

いくつか 本当に感謝することがある

 

そして いま 私が当事者として 言えることも

 

ピアカウンセラーとして 言えることも

 

割り切っている からでもある

 

ある意味 病気であることで やるべきことと

 

やらざるべきこと その 二つが 必要になることに

 

気付いてほしいと 思います

 

では どうすればいいのか

 

簡単にいかない ことでもある きっと もう

 

病気のせい にしていたくない

 

などが 私の心の中で いっぱいありました

 

それは 当事者として 苦しんだ時も

 

今 楽になって ピアカウンセラーを 目指していても

 

病気だけではない そしえ 病気が 原因ではない

 

という気持ちは すごく 強かったです

 

なので ごく普通にしていましたし わめき叫んだことは

 

少なかったです それも まだ 20代30代ならということですが

 

本人は ピリピリと 電波を 発していたのかもしれません

 

そんな時ほど 一触即発 すぐに 喧嘩になります

 

という 経験があっても いくらやっても

 

怒って どうなる ことは無いのです

 

それは 私の立場でも 母親の立場でも

 

同じでした 同じことで また 喧嘩する ことになることで

 

いつまでも 心の中に ある 親だったと思います

 

どこにでもいる 親子

 

そう 思います

 

けれど 最後は 決別 という道を 行くことになりました

 

絶縁です

 

それでも 良かった 今です

 

なにより 親として 接する 家族だと思う

 

そんな 居場所にいて 私は 学ぶことが いっぱいあります

 

いま 親のように 見ていてくださる 支援者さんや

 

それぞれに 居場所としての 立場にいる方とか

 

バランスは 本当に 補いあっていると

 

私は ここで 学ぶことが いくつもありました

 

残念ながら 家族や 友人には 絶縁となってしまったのですが

 

ここでの 出来事 今の B型事業所

 

カラフルラットでは 私には 今 とっても 素直になっている

 

素直に 話せる という 態勢が 出来上がっています

 

それに 頼ってばかりではない

 

割り切って 付き合う など とうとう 私は

 

心が もう 自分に出来ることなど 限られてきたのです

 

なので そんな 小さな 事が

 

一番の できる限りである 当事者がいうには

 

タイミングは 大切である ということ

 

そして 長い目で 見る ということ

 

今 私は 乗り越えたことがあります

 

精神病として 種類的に 治らない 病気

 

発達に対して 割り切ったのです

 

それは 友達ではなくなる ということです

 

けれど 理解できない 子には 友達だと 言う事です

 

嘘をついて 関わる ということですし

 

病気の子という ことを 抜きに出来ない

 

思想というもです

 

それは 当人には 病気であり

 

その対処は 必要だと うすうす 気づいていても

 

なかなか 実行できないし

 

そこから 私は 心を痛めていました

 

けれど そうではやってられないのも そうなのです

 

私は どこかで 友達で それでも いいよっていうのが

 

ある けれど やってられない そう 

 

ある意味 積んだ荷物を下ろしたのです

 

な時から 解っていたのは そういうと

 

穏やかになる そう 収まる という 現場をみていて

 

何度も 同じことをする 支援者さんを見ては

 

おぼえたことでもありますし

 

私自身 この 20年の闘病で であった 医療従事者さんとの

 

関りの中で 当然 あったことも

 

今 鏡のように 映る事でもあります

 

心の中で 傍にいることも よいけれど

 

現実で 傍にいることも 良いのではないでしょうか

 

いろんな 方が それぞれに 答を出すことで

 

進んでいく 事でもありますから

 

私は 私のタイミングで 良し ということもあり

 

そして それぞれに 良い タイミングがあります

 

けれど 病気である ことに

 

先の見えない 不安に 寂しさに

 

心でぶつかっても どうしようもない ということです

 

スキルとして 徐々に 理解する 

 

そう 心に 決めないと 私は 生きていられませんでした

 

それが 現場の 私の関りであり ここからが 始まりです

 

それは このままでいたかったと 泣いている自分に

 

容赦なく 心の中の 本当の 自分に目覚める時

 

という 時が 来た

 

そして 目の当たりにする 自分の 自分への仕事でもあるのです

 

いったいどうすれば という 事を 思ったのは

 

決して 解っていないからではなく

 

一筋の 可能性を 自分との関わりの理想が

 

崩れる 崩したくない と思うがために

 

傷つけ 傷つき そして 喧嘩になる

 

その 負のサイクルが どうしても 人間とか 家族の中で

 

それこそが 愛だよ って 言えることでもあるけれど

 

実際には 上手くやる 上手く付き合う

 

そう 繋がる ということが きっと 楽であり

 

私のように 絶縁とはならないかもしれません

 

ここで 学ぶとき 母の顔がいつも 思い浮かびます

 

叱られる ことがある けれど ここでは

 

配慮され 環境は良くされる

 

その 都合のいい ことが 何を もたらすのか

 

いっぱい 悩みました が

 

簡単でした

 

私が 多くの人の中で 生きようするなら

 

その場限りなど いっぱいある という 現実に

 

社会に乗る 事ができるためには

 

周りのサポートをも 自分のものにすればいい

 

そして そこから 伸びるなら

 

割り切って 対応することで 余計なものは無くなる

 

自分からの 景色のいい場所にして

 

悪くない

 

それが タイミング的にも良い 方向へ向かえる

 

そんな 切り開く 力を付ける事

 

それは どちらともですが

 

私は あえて 自分が 変ることに 勤めることに

 

しました 

 

その時 きっと 自分の中で 人道的ではないって

 

思うけれど

 

きっと それが 私の求めている 世界につながる

 

私が 変ることにしたのは 変りたい事は

 

これだったと 気づいたのです

 

ここ3年で 思い出す それまでの 家族が

 

はっきりと 忘れてもいいぐらいの 時間をかけて

 

絶縁となりましたが

 

親のようにはしない と 心は決まっていました

 

それが 親子で 最後の愛です

 

なにかと 理解しがたい でしょうけれど

 

そして ピアカウンセラーでありながら 突き放していることも

 

事実ですが 専門性を持つなら そういうことです

 

と・・・辛口でしたが

 

ここまで読んでいただき

 

ありがとうございました。

こんにちは あおしゆうです

 

今日から クリエイトな 活動の中止がはじまり

 

逆に それ以外の 作業

 

いろいろ ありますが 

 

確実に お仕事を しています

 

周りの 評価も ついてくると 思うので

 

張り切っています

 

な このブログも ようやく お仕事として

 

私は 取り組んでいます

 

今 伝える問であることや

 

これまでの 経験 体験談で

 

伝える ことで よりよい 情報となりますよう

 

見て行ってください

 

というのも 確実に 治っている 状態が

 

はっきりと 自分の コンディションを

 

バランスよく 使えるようになり

 

内容は とっても 身のつまったものです

 

これまで 悩んでいる時 そのまま 文章にして

 

とどめておきたい 現在の 自分を

 

ありのまま 伝えた事かと思います

 

そこから じゃあ 私の出来る事

 

その 模索が 多い とっても 大事という中で

 

これから やって行くことなどを

 

書きたいと 思います

 

今 私は 新しい 主治医に変わって 半年が 経つぐらいです

 

年齢的に 私の方が 年上となる

 

初めての 事です

 

とっても 患者さんが 大事な方で

 

そして 女性ともあって

 

とっても 明るく 朗らかな 方で

 

心配症な ところもある お医者様です

 

はっきりと 薬について 引継ぎを

 

見ても 合っている ということなので

 

少し 安心しました

 

以前の 主治医に とっても 感謝しています

 

ななか 私は 17歳で 発病し

 

現在 42歳 倍の時間が 経ちました

 

これまでの 行動は 

 

いろいろと してきたのですが

 

確実に 今の お仕事につながる

 

ことなどは していないのです

 

なにより この 5年で 回復している自覚が大きく

 

とっても いままでが 病気であったという

 

結果 として 

 

とっても マイナスな事でもありました

 

それに その時には どうしても

 

普通の 仕事に就く ということが

 

できないでいました

 

それも 能力の無い 停滞期というものの時間は

 

休むしかないし どうしても 治っていく感覚も無い

 

押しても 引いても 仕方ない

 

という 頭の ぐるぐるしたことが 

 

何とも言えない 時間を 作っていました

 

なので 行動する時 やってしまうこと

 

やってしまった って 後悔だけが 残り

 

いくつも そのような事になると

 

自信も失い 意欲も 緊張感が高まり

 

上手くいかない という時が 

 

ありました

 

時間は 過ぎて そして

 

42歳 とっても とっても ここから

 

45歳までは 闘病は 続きそうですし

 

そこから 考える という 主治医の 意向もあって

 

ここで 足踏みしている 状態です

 

それでも 毎日は あります

 

こんな 何もない 何もできない 日々は

 

これかた 3年ほどは 続きそうです

 

な中 振り返れば 1000通のblogが あり

 

また タイピングしだしました

 

ここから 始めようとする ことは

 

いろいろ あって B型事業所 カラフルラットでの

 

お仕事が あります

 

ちょっと前に 私は 仕事で 苦しみたい

 

という 希望があって どんなことがあっても

 

自分を 使いたいとして

 

やっても 実際は 2.3週間で 何もできなくなりました

 

あれから 半年ぐらいで

 

いま 軽くなった 思考と 行動が 生まれています

 

そこからは 楽に 仕事が できる 

 

そんな メンタルと 今の対応が あります

 

色いろなこと・・・・

 

ありますけれど

 

そこだけ 行動する 事を

 

ピックアップすると

 

意外にも 普通ではない 体の不調も

 

普通ではない 心の作用も

 

あります

 

ということが あって いっぱいあった

 

自分ですが ここまで来ても

 

まだ まだ 行動に移すという時には

 

専門家の サポート 支援を

 

ちゃんと 相談するとか ちゃんと 連絡する

 

ということで 良くなる ということが

 

言えます

 

20代 30代が 一番 若く 何でもしてよい

 

何でも チャレンジしていい そんな 若さだと

 

思います 実際 私はとんでもない 行動を

 

この 3年ほど前に していますし

 

なかなか なおりません

 

それでも 治る時が来るのを

 

まっている それでも いけない できない

 

そんな メンタルに 陥る 事になるなら

 

行動すること

 

そう 叩きこんだ 自分の方針もあり

 

小さなことから 繋がった 判断というのを

 

してきた ことがあります

 

なんでも 誰かが言ってくれるように とか

 

誰かが声を かけてくれると 思っているとか

 

自分には できることがある とか

 

様々な 思いの中 そうではないよ・・・っていうことも

 

本当のあったので

 

私は 今の 行動力は すべて

 

20代30代の ジレンマや 失敗など

 

繰り返して いたことにも 当然 取り返せる分のもの

 

そんな スッテップを踏んで

 

今の 判断は あります

 

自分は はっきりと 自分の事に対して

 

目を向けていた そして 努力と 行動を

 

起こしていた ということに 今の 回復は

 

加速しています より 普通に依った

 

普通に のっかった 今の 仕事の中で

 

それの方法がいい それがいいというのが

 

なかなか 見えてこない 時もあったので

 

はっきりと お仕事というものを

 

自分で やるしかない 自分のために したい!

 

な 不問な ことに 対しては

 

その時があったと いまでも その時のblogは

 

戒めのように 残っています

 

なので すっごく仕事が したい!

 

という時の波が いくつもありました

 

小さい波も 大きい波も

 

押し寄せたことは いっぱいあります

 

そして はっきり 思っているのは

 

投資しなくて なしえるものは無い

 

ということです

 

どんなことかというと

 

お金が無ければ 何も 情報が 無いし

 

つぎ込まないと その全容は 自分で

 

判断できない ことになり とっても

 

誰かがいなければとか 誰かからきかないととか

 

第三者 や 親族 家族の 力を

 

パートナーさんとか 誰かがいないと できない!

 

ってなる ことが 私も ありました

 

自信がないとか 経験がないとか

 

スキル 勉強ができない とか 様々ですし

 

とっても クリエイティブ活動に いそしんだのも

 

自分が とっても 焦っていて 証明したかった

 

そんな気が させたと思います

 

それも 数々の 投資として 自分が 

 

そうでなくてはいけない という 思い込みから

 

とっても 立ち直って また 行動する

 

簡単に できるように

 

自分の判断そして スキルを 積むときが

 

いろいろな 障害や 関係性で めちゃくちゃであった

 

そんな時も あります

 

実際 大きい事は 化粧品のフェイシャルエステというものに

 

依存して とっても お金・時間を かけて

 

頑張っても 自分には 何もならなかったし

 

当然 生活保護になると お金がない 贅沢できない

 

そうなります

 

当時は フェイシャルエステで 同じ病気であるかたの

 

奇麗を お手伝いしたい ということで

 

やってきても 縁は 切れたので

 

そうやって どんどん 頑張ってきたことが 消えていく

 

そんな気持ちもありましたし

 

誰もなにも 誰からも 言われない ことで

 

自己責任は 強くなりました

 

あまり良い事ではありませんが

 

自己責任 信頼 などが とっても

 

ここ 3年で やってきた 事でもあります

 

その時は 解らなかったことが 

 

解るようになり

 

今が 充実している 状態でもある

 

そんな中で どうしても

 

この3年 前に向いている 状態でもある

 

な ことになるから どうしても

 

投資は してほしい

 

なんでもいいから 

 

自分のぬぐえる 程度なら

 

やってみたほしい という気持ちが あります

 

それは どこにいようと 

 

家族といようと 一人でいようと

 

試すことは 試してほしい という 気持があります

 

これは 直で言うと

 

ご自分の 直接的な 乗り越える事でもあり

 

まだ 手が多い 周りが手を貸してくれる

 

その時から 自分への 投資は してほしいです

 

むやみに 突っ込こむことも

 

何かと 地盤があれば

 

そこへ アプローチする ことも

 

していいと 思います

 

何故かというと

 

自分に スポットライトがあたって

 

自分が 主役で 自分が一番

 

という時間が 社会との 接点がないということで

 

なかなか 感じられない

 

成長できない そして 働けない状態であること

 

そこに 一番効くことは

 

投資をする 事です なんでもいいです

 

習い事をする どこかで 勉強する

 

自分には 一日しかできない

 

できなかった それでも

 

私は 当時 novaにも行ったし

 

ゲーム関係のスクールにも

 

絵本の作り方も行った

 

そんな ことの 繰り返しでした

 

なんとかしたい! それだけでしたし

 

ただ やりたい!で 起こした 結果でもあります

 

けれど その時 仕事そして 充実したライフプランが無い

 

精神保健福祉士さんに 相談しても

 

何もならなかった だから その時

 

頑張るしかなかったし そして 無理な事であると

 

誰もが 思っていた

 

けれど それがいいのは

 

そこで 学ぶことと 未練や その時出来なかったことで

 

恨むことを したくは無かった

 

何より 自分の 負の感情が 現れる事

 

その 渦に 囚われてしまうのならば

 

すっきりとした 自分への 対応でいることが

 

ないよりの 成果ではないかと どこかで 思っていました

 

それは 私が 発病して 当時 17歳

 

その先には 大学や専門学校が 待っている

 

そんな時の 発病でしたが

 

無理なのを 解っていて

 

主治医は 専門学校への 受験を した方がいいと

 

家族を 納得させました

 

それが あの時 してくれへんかったから

 

こうなったんや!

 

なんてことが無いように

 

やってあげることが 親ではないか というものです

 

なので 私は 専門学校へ行く前から

 

辞めるのを 解っていても

 

入学金そして 受講料を 払っていくれました

 

それが 300万近く ありましたが

 

私は 一日も 党校ぜず 払う事になり

 

とっても ありがたく そして 本当にありがとうと

 

言えました なので 次

 

自分が することは 自分の範囲内の

 

投資をすることでした そして それはすべて

 

自分の 学びに使いました

 

な 時が いっぱいあって

 

何もできていない 何もならなかった という時を

 

時間で言うと 20年あったのです

 

なので 最近まで 本当に 3年前まで

 

どうしても したい事がある

 

ことには 直で 投資したのです

 

それは 今でも ありますが

 

少しづつ 自分への 負担 まずは 体力

 

そして キャパシティ

 

コミュニケーションの スキル

 

どこかへ でかけたら どこかへ

 

学びに行けば 当然 要されることでもあります

 

ちょっと 嫌だな とか ちょっと 嫌だったこと

 

いっぱいあって 本当に

 

外へ出て どこかへ 出向き そして

 

目的のある 行動 というのは

 

疲れるし 普通の人でも あることです

 

そこの 小さな ステップなしには

 

回復は ない そう 思う事が 必要でもある

 

それほど 働きたくはないとか

 

家庭に入る それでも した方がいいのです

 

その時 きっと 支援として 家族として

 

とっても 進められないし 進めない

 

そして 保証もない そんな 繰り返しです

 

繰り返すことで どう 社会が 動いているのが

 

体験できる そこに 気づくまで

 

頑張る 我慢し.て 見守る 家族も 支援も

 

あるということに 気づく

 

本当に やってみないと 解らない

 

それは 今 私は いろんな 興味があっても

 

自分軸は ブレない メンタルがある

 

それは 頑固になったのではない

 

自分を知ったのです

 

そして 一番の こだわり

 

絵を描く という クリエイティブ活動に

 

終わりを つけました

 

やればいい とか なんでも頑張ればいいとか

 

簡単に 簡単にできることから

 

その 証明のように 上手くなった

 

ドラゴンのイラスト

 

そして ドラゴンとペンギン展を 終えて

 

また グレードアップしたにも 関わらず

 

終わりにしました

 

当時から 上手いとか できるやんとか

 

できるなら こだわって 時間をかけて

 

という ことの 繰り返しを

 

どこか 楽しくないと こぼしていて

 

楽しくない そしえ 嬉しくない 作品に

 

どこか 虚空を 仰いでいました

 

で 結果 

 

私には 道が あったことに 気づいたのです

 

それが ハンドメイドと トールペンと タロット占い

 

という 三本立て です

 

このことから 生まれた その支えの上にあるもの

 

それが ピアカウンセラーとして 仕事をする ことでした

 

私は 三つの柱 を 武器に

 

そこから 支えられるのは 一つ

 

本当に その路を いくことに したのです

 

いま 詳しくは言えないですが

 

当然 行動が無ければ 無いものです

 

そして いろんな 投資をしてきて

 

本来の 私は どんな お金も やりたければ

 

いとわない といことが あります

 

けれど それは これまでに 培った

 

力として 先々の見えない 投資をさけることができていたり

 

お金と引き換えに 変る 物事だけではなく

 

品物も ある程度 見切れる 事が出来て

 

なおも ブレない 自分の 求めるものも

 

ちゃんと 掴んでいる ということが

 

この 20年で できている ということです

 

その時 何もわからない 能力も低い中で

 

とっても 危ない 事でもあるけれど

 

今後 自分一人で 歩かなければいけないとは

 

こんなことの 連続です

 

それでも 不満のある 体質と 病気は

 

自分の気持ちに 負荷をかけますし

 

とうぜん リスクと 波もある

 

なんとか 治る という時に

 

何もしていなければ 何もない し

 

その先 どうしようもない のです

 

当然のように B型事業所や 支援者によって

 

毎日は 安定しても

 

最後に これをしていてよかった と

 

今後 10年20年と ある 自由な時間に

 

間に合わない となり また

 

その時 私も 40歳という 時

 

若さも パワーも 落ちました

 

それでも やるんだ という気持ちは

 

いままで 行動し どうなるか

 

結果を積んでの 判断だった

 

その 自分らしくやった 停滞期の

 

行動で すべては 変りました

 

今 私は 社会への接点は 多く

 

支援者さんだけではない 方々に 会って

 

実際 一緒に 仕事をしています

 

そんな環境でも それがいいのは

 

自分の やるべきことに 何が必要か

 

解っているからです

 

何もしていなければ できるわけない

 

そうなる時が 私には無い

 

それが 一番の 効率いい 仕事への姿勢に

 

向けられるのです

 

それは 病気である 当事者さんや 支援者さんや

 

一般の ごく普通の方でも

 

なるのは そうなるのは 自分のためということ

 

誰のためでもないと 思えるまで

 

思えるようになるまで 私は この

 

3年の間に 回復という時間には

 

悔やんで そして 泣いたことは ありません

 

それ以上に やるべきこと

 

そこから の景色に 目を向け

 

あるがままに 道を 切り開いたのです

 

それまでは 我慢とか いっぱいありました

 

最後の 母の言葉 は 辛抱し

 

といことです

 

けれど はっきりと

 

母は 私ではない

 

母である

 

そう思うと その時

 

そこから 卒業できたのです

 

などなど これまでの 事を言うまでも無く

 

失敗と 無駄の連続ですが

 

とうとう 本を読んで

 

社会を 勉強する など

 

色いろな方法に たどり着いた

 

この 3年間

 

とっても 大事であり そして 進んだ結果が

 

得られたこともあります

 

3年前には もう 生活保護としての生活をする

 

その時から 自分には 起業しかない

 

だったのも

 

生活保護だからです

 

それも 病気による どうしようもない

 

時間です

 

そこに 今の スキルを つける 力があるのは

 

これまでに 学んだことが 多いからというのもあり

 

そして 支援者さん 支援機関での 仕事では

 

理解のある 方がいる

 

それまで 自分が ピアカウンセラーや

 

起業 はたまた 婦人サロンのメンタルヘルスをしたい!

 

そう 思う その思いを 伝える

 

のに 大分 勉強した ことがある

 

それは 私の人生の中で

 

行動しなければ 何も得られない

 

行動していなければ

 

きっと もっと もっと 足りていないと

 

感じている そして 先が見えない

 

そうなっていたでしょう

 

できる限り 負債のない そして

 

悪行ではない ことに 行って

 

小さい事から コツコツと

 

それが 一番の 近道です

 

ある意味 コミュニケーションも ままならないまま

 

突撃したことなんて いっぱいです

 

それでも 良かったって思えるのは

 

支援者以外 支援機関以外 普通 ごく普通の

 

反応と 普通の トラブル

 

普通の 別れの 数々が

 

ある意味 自分を 振り切って

 

ふり絞って 頑張った事でもあります

 

どんなに 地域密着 どんなに 支援の手を借りても

 

自分の責任が 取れないと 思う事を

 

どこまで 頑張って 自分流にみいだすか

 

それが 培う時

 

確かに 40歳を 超えていました

 

けれど 20代 30代では それが できる

 

その目を どうか つぶさずに

 

ちょっと よい 思い出を 作ってください

 

今の 私は 自分のスキルが 高い事に

 

追いついていないのです

 

それは ドーパミンが人より多いとは

 

そだけ できる 要素が あるからであり

 

要するに 天才なのです

 

けれど 私は ごく 普通の今の感覚で

 

それでいて また できる方です

 

天才には 結局なれないけれど

 

そこには 普通ではない 能力の塊のように

 

自分のスキルは ありました

 

なので 病気も 完治する手前で

 

整えている そんな 状態です

 

それでも 生きて行ける

 

その時が いまを支えています

 

なので よくよく 思うのは

 

自分のことを 恥だと 思いすぎたことと

 

望まなかった 大きなこと

 

そして 無理だと 言われたこと

 

そして 母親 家族の 言葉に

 

従いすぎたこと

 

とんでもなく 自分に 罰を 与えたこと

 

いろんな 経験から

 

きっと 行動するとは

 

その時の ごく普通な事でもある

 

自分には 意味のある事

 

そういうのも 他の人からして

 

その意味は 見えない事

 

そこを 不安に思う 支援者や 支援機関と

 

相談し 乗り越える

 

きっと 今まで 無理のある ことをしてきた

 

私にとって この システムである

 

B型事業所などの 福祉施設に 従事することは

 

ある意味 強制でもありますが

 

上手く 付き合えたり

 

上手く 利用すれば

 

それは プラスとなる

 

そのように 改善していく 病気の状態は あります

 

そこに 囚われる ことなく

 

プライベートも 確保することで

 

普通に近い 生活は できます

 

その時が くれば 回復もあるでしょう

 

私は 今後とも ここを利用することも

 

あと3年は ありますし

 

完治は ゆっくりだそうです

 

それでも 普通に近づくとは

 

社会に出る事

 

治る時には 薬が 必要で

 

薬を 出してくださっている 主治医の

 

意見書から 全ての 福祉の利用と

 

そのところからの 支援 そして

 

守ってもらえる 責任もある

 

そこから できることが

 

どうか いつまでも 続くことを

 

前提に いてほしくはないです

 

利用しながら 自分の 道を 見つける

 

この 3年で がらっと かわった

 

生活があります

 

行動し 経験しなければ 置いて行かれる

 

焦りは その時 どうにでもなる

 

繰り返せば 強くなる

 

そう できることから コツコツ

 

頑張ってみてください

 

ここまで読んでいただき

 

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

こんにちは あおしゆうです

 

今回は さっくりと 

 

統合失調症 当時者として

 

挑んだことなんかを 盛り込みたいかなと

 

思います

 

それは お仕事 プライベートとか

 

趣味 発見とか

 

いろんな ことが ありますし

 

これまで いろいろと ありました

 

きっと 同じ人は いないだろうと

 

思いながら 同じ 事が 無ければいいし

 

もしかしたら って 思いから

 

こんな形から ですが

 

少し 書きたいと 思います

 

意欲の部分が とっても 失われて

 

しんどい日 ありました

 

考えることは 期待や 不安との 戦いです

 

当然 発病して 生活は

 

ただ 通院と ゆっくり している

 

ことが 一番の 回復への 近道です

 

けれど 何でも よい わけではないと

 

されているのは サポート や 受け皿が 無い

 

といことが あります

 

私も 痛感したことは

 

良い兆しで 話す 未来と

 

悪い兆しで 話すことには

 

とっても 差が あることが 多いです

 

たびたび 私も ネガティブにはります

 

けれど その日が 続くと

 

本当に 支援は 滞っていくのです

 

人の 気持ちは そう簡単に

 

当事者を 受け入れてはくれない 

 

そんな 現実が あります

 

とりわけ B型事業所や A型事業所が できた時

 

2015年に とっても 障害があっても

 

社会へ出る 窓口のように 

 

日本は 変りましたが

 

その 歴史も まだ浅くて

 

私は 上手く 乗りこなした方であって

 

すべてを 丸くして 生きる すべを

 

身につけた 身に付いたのは とっても

 

今 強みにしています

 

それほど 自分でも 自分ですら

 

辛い という ハードルが あり

 

その ハードルは 容赦なく やってきました

 

確かに 良くなる 良くなる方へ

 

進めて行ってくれる 支援者さんの 中で

 

当然 もとめられる 姿勢も 必要になってくる

 

支援とは 確かに そうですし とっても

 

相談にも乗ってくれます

 

ここで 私が言いたいのは 全ての支援に

 

結果が あるけれど それが 良いかというのは

 

ある意味 決められた ルールがあるという事と

 

それ以上に 自分の 思いや

 

それ以上の 自分の 努力というものが

 

どこまでも 補助が ついたままで

 

ずっと 生きれることが無い

 

逆に言えば おおよそ 計画中で

 

自分の 時間を使い そして

 

目覚める こととか 気向いて

 

自分のプライベートで やってみる という

 

相談もできれば

 

とっても 支援できないと なるかもしれないけれど

 

評価は あがります

 

なんでも 解ってほしいとか 何でも

 

保証してほしいということには

 

厳しく 言われるということに

 

という時の 私は 不満も ありました

 

当時と言っても 20代とか ですね

 

意欲は 無くなり 何もできない日々の中

 

主治医も 何も言わず ただ

 

セオリーに従い 薬を出す

 

という時間は 30歳になるまでもあったし

 

私には ターニングポイント として

 

35歳で 鼻炎か 完治したことで

 

さらに 加速して 完治に 近づいています

 

という 頭の中で 考えていたことを

 

書けるようになることも いわゆる

 

自分の 気持ちから が 始まりでした

 

なので 意欲は 当然 なにか 

 

会話しなければ 始まらない そんな

 

現実が あり 当時 なんでも あがり症で

 

頭も 靄のかかっている そして

 

体も 休息を 求める時

 

とっても 何もできない し

 

何もしたくない ただ 優しくしてほしい

 

理解してほしい な 日々は 続きました

 

なので その 乗り越える 道というのが

 

悪い状態が 続くと 閉鎖的になり

 

閉鎖という 閉鎖病棟に行く

 

ということにもなり

 

そこからまた 隔離室とも なることが

 

ありました し 当然

 

社会から 離れて かけ離れていく

 

そんな時間が ありました

 

どうして こうなるのか

 

というのは ひとえに 言われる部分は

 

病気だから というのですが

 

では その 病気で 病院の中は

 

どうなっているのかというと

 

ペーストされた ご飯と おかず

 

そして 鍵がかかって 自分からは

 

開けられない 扉 一枚の

 

4畳ぐらいの コンクリート 打ちっぱなし

 

何もない 部屋で ただ 過ごす

 

ことです この 隔離室は 私も

 

何度か 入りました

 

そして そこから 閉鎖でもあるけれど

 

他の人がいる 大部屋 とかになると

 

とっても 寝ている

 

皆さん 寝ている そして

 

私も 寝ている

 

ずっと 休む ということが

 

はっきりと あります

 

これが 苦しいと なれば

 

でられるのですが

 

ある日とは もう このままでいい

 

と なる人もいました

 

なので きっと どうすればいいなんて

 

この時は 私も 病気と 経験から

 

なにも 進めらえるものは ありませんでした

 

けれど 良くなって 一度

 

急性期病棟へ 行くことになっては

 

その後 退院し そして また 入院ても

 

閉鎖とか 隔離とかは 無い

 

日々が ありました

 

それでも 入院していて

 

そう 楽しくも無いですし

 

ここでも 自由もあるけれど

 

ここで 成果がでなければ

 

同じでもありました

 

それは 担当の 主治医の

 

手腕の発揮でもあるし

 

自分自身の決意と 自信が つかないと

 

回復は ありません

 

という 現実が あるのですが

 

ただ ここで言った 閉鎖や 隔離は

 

そうとうの 心の強さが つきました

 

それに 気持ち一つです

 

ご自身の 気持ちだけで 全てが

 

決まります

 

上手くやるのも これでいいのも

 

自分で選ぶ そして その 意向から

 

見えたなら 回復へ また

 

チャレンジとなっています

 

私は そんな風に 思っていましたので

 

回復して なおかつ この後

 

とっても 自由に そして もう

 

入院することが無い という風になる

 

ためにしたことが あります

 

まあ B型事業所に 行きながらも

 

入院は ありました

 

けれど その時 どうしようもなことから

 

ちょっと 助かっていたのです

 

なので 心に 決めるのは 自分次第

 

そして あの時 閉鎖 隔離となった

 

回復するために 必要な 力を

 

私は 手に入れていたのです

 

なので 皆さんが くつろいでいる 間に

 

鏡に向かって ストレッチを

 

ずっと あきるまで していました

 

この 試みの 裏には

 

いままで 入退院を 繰り返し

 

普通の生活の中 自分の 動ける範囲が

 

段々 小さくなっている

 

そして 家族 としか 出かけられない

 

という すっごく できないことに

 

自分は 腹を 立てていたのです

 

その 思いから

 

退院したら どこでも でかけられるようになる!

 

という 思いで

 

毎日 鏡の前で ジャンプしたり

 

ストレッチと 少しの スクワット

 

筋力を つけたいために

 

人目を気にせず とっても

 

頑張りました

 

この時 私の近くには

 

同じ年ぐらい 同じ性別の 子が

 

すっごく 看護師さんと 楽しく話していたㇼ

 

そして とっても 主導権もある そして

 

自己啓発も ちゃんとしていて

 

なんでも 目立つ人が いました

 

私は 羨ましくて 上手く言えない

 

私の 態度と 堂々とした

 

格式ある 人と

 

とっても 比べてしまっている

 

私がいたのですが

 

私は 看護師さんと あまり良い

 

コミュニケーションができない って

 

ずっと 思いながら

 

けれど 毎日 鏡の前で

 

絶対 どこでも すぐに行ける

 

体にするんだ!

 

と 体を 鍛えていました

 

この後に たまたま 体操という

 

時間が たまにあって

 

皆さんが ベットから 出てきて

 

軽い 運動が 始まります

 

ホントに 軽く 誰でもできる

 

座りながらの 体操です

 

が ここで 大きく出たのは

 

私の 余裕の 筋力と 体力が

 

あった時です

 

その 上手く 付き合う 余裕のある 彼女とは

 

違う 事が 発揮できました

 

なので 彼女が できなくなって 辛くなって

 

すぐ帰る という行動に

 

私は 私は これで良かった

 

と 体力を つけて とっても

 

見返した ときでもありました

 

これは 私の心の中での 話しなので

 

マニュアルなんて なかったですし

 

そんなこと 思っていたなんて

 

周りは 知らないでしょう

 

けれど ここで 閉鎖 隔離となって

 

生まれた 判断と 気持ちの意向が

 

できて とっても 結果の出たことではないでしょうか

 

という ことを 自分で決める

 

その 日々の 思いと

 

そこからの 相談や 支援だけではない

 

ご自身の みいだした 力というものは

 

とっても あると 思っています

 

それが ただ あるだけではない

 

なにか アクションを 起こさなければ

 

始まらない といことが あります

 

そういう 日々でもあります

 

毎日 回復する 右肩上がりは

 

そうそう 無いです

 

けれど その 辛さから 出るには

 

辛さを 乗り越え そして 乗りこなす

 

そんな 努力が 必要です

 

なにより 自己肯定感とか 主導権などの

 

振りが  いっぱいあって

 

うまく これをやればいい

 

ということがあるかと 思いますが

 

できる 毎日できて 無理のない範囲など

 

甘んじていては 突破し

 

その後 否応なしに その先の

 

試練も やっては来ません

 

その先の 試練とは 人に自分を知ってもらって

 

知っている 共有できる できている ことから

 

相談 協力を得て 何かに 取り組む

 

という事です そこでも 心からの声

 

これまでの 出来事などが 重なり

 

何でも 初心者で あって 当たり前なのです

 

そこでも この私の行動

 

ただ 入院しながらも 体操を 自主的にしていたことが

 

生かされる 評価出来る

 

私の 一つの 基盤が あり

 

とっても その先も 何もない まっさらな状態で

 

取り組める 経験をしたのです

 

なので 自分の力は どこから

 

付くかは ご自身の 思い切った 行動から

 

私は そう思っています

 

ただ ややこしいのは

 

当時 体操 そして 体力を つけたいと

 

思い 取り組んだ時ほど

 

周りからの 視線は 釘付けであり

 

多くの人に 気軽に 挨拶できていた

 

そんな 現実もありました

 

そこから 考えれば 楽な道を 見つけていた

 

とも言えます

 

なので なにが 正解なのかは 

 

その時の 努力と やってみようとする 気持ち意外

 

無いのです

 

けれど その先にもっと 訓練が 待っていると

 

そういう 道には 私は 向かなかったのです

 

なんでも 自己発信し 相談もでき

 

環境配慮される その時には

 

私は 随時 勉強 そして

 

さらには 独自で やる 趣味も何もかも

 

自由に なっていたのです

 

な こんな 私 ほっといて

 

って いっている 自分に

 

とっても 酔いしれたことも あります

 

甘えてたり 我慢もしたけれど

 

どんどん 良くなる とか どんどん 治る

 

そうなると その 普通ライン スキル

 

能力も 常に 無いと

 

また 迷って 彷徨って 自信も無くしましたし

 

その連続です

 

ある意味 普通は そうであるものなのか

 

という 解釈もあるし 私は

 

普通の中の 好きな位置 というものに

 

楽なことも あり 手っ取り早く

 

今の B型事業所に 5年もいる ことになっています

 

そうなって 今になって

 

やってきたことが 何なのか

 

自分でも 折り合いつけて そして

 

自信になっている 今です

 

望まれてない 望み

 

本当なら あるもの

 

それは 無い というのが 結論です

 

辛口になってしまいましたが

 

私は 認められる 方法を その時に

 

見つけただけかもしれません

 

そんな 小さな一歩が 

 

私の 基盤にある 本当に

 

それでよかった やってて良かった

 

そう言えるのは 案外

 

入院中の 自主的な ストレッチ

 

それだけかもしれません

 

そんな 思想の 私が 

 

今の 私の ためにしていることも

 

支援を受けながら 会話の中

 

進むことも 恐れなくなるには

 

今まで かかりました

 

ここから また また まっさらになって

 

始めてゆくしかない

 

今に 複雑にも やりがいは あります

 

それに 支援者さんの 仕事として

 

その 仕事が 与えられている

 

いわゆる 支援が 職であり

 

仕事であることに 対して

 

私は その ためにいる ということも

 

ありますし 

 

当然 私は 闘病のためにある 行動 言動が

 

義務である 仕事である ことは

 

本当に 難しいかもしれないです

 

けれど どちらも 行きたい道

 

生きていきたい道 そして 認められたい

 

スキルを つけたいとは

 

とっても 同じのように 思います

 

クライアントを 思わない 支援者はいない

 

という事が 理解できて

 

なおも 自分を 投じる 行動ができること

 

そこに 私は 魅力を 感じます

 

苦しい 場面に 苦しさを 思い出しても

 

前に進めません

 

そこから どう 行動し

 

理解を得るのか きっと そう

 

意識される方が 良いかもしれません

 

な こんな 自伝の様な事を

 

最近は書くようになり

 

それが 今できる ピアカウンセリングでもあります

 

いま わたしの周りで起きている事

 

そこに 私は コントロールし

 

楽になれる 今を 手に入れました

 

な ここから 発信する ことも

 

また 始まったように 思います

 

どうか これに 懲りず

 

また 見て行ってください

 

ここまで読んでいただき

 

ありがとうございました。