こんにちは あおしゆうです
この暑い中 頑張っている 闘病の方
精神病にも 季節 気候によって
良くなる 悪くなる
そんな 時があるし 私は 突然風邪にかかりました
治った時から 食事は おいしいです
ということと 五感 が 最後は
嗅覚の回復 だけとなりまいした
いままで 味覚が 発達していなくて
おいしいが 解らない と 感じていて
ようやく おいしいが 解りました
とっても 楽しいです 食事が そして
その時の 雰囲気が とっても おいしさになる
などなど 楽しみが 湧き そして 残るは
嗅覚となりました こんな 初心者 人間初心者
な 精神障害者 統合失調症 との 付き合いから
今回も 書きたいと思います
何分 人に対して 慣れのない 日々を 過ごしてきた
いま 生活も 仕事も 自立しているけれど
ここ 3年前は まだまだ 一年のうち 3か月は
入院していました
そう考えると 今の 状態が とっても
理想である そうとも 思います
なにより ハローワークで お仕事を 探す時
仕事と生活の両立できますか?
と言われて 何も 返せなかったです
それに その時は 就労移行事業所に
1年半 通って その先を 探している 時でした
私には 確信を持てる 力が無い
そして 家族の 傍らで 笑顔でいる
そんな 試練がありました
それだけではない あがり症や 疲れやすさ
なに一つ できていないと
自分に 自信が ありませんでした
今になって タロット占いや ハンドメイドをして
なおかつ トールペイント 勉強中など
やりながらでも B型事業所の 仕事をしていますし
生活保護 そして 支援があるけれど
生活は 自立している この 時に
すがすがしさを 感じています
慣れる し 成れる
その 一つの 成功を 言える そんな今でもあります
今 しんどいよね とか
ゆっくりしていいよ とか
いったい どのタイミングで 言う事や
言うタイミングとか どうすればいい?
という 現実 支えたいとか 言ってあげたい
という言葉を そのまま 受け取ってほしいという時の
タイミング および こじれない 言い方など
私自身も 受けて ストレートに ありがとうと
言える時もあれば ありがたみ 50%で 受け取る時など
心の中を いま その時の事を 思い出すと
なんて 鋭い 刃物なんだと 少し ショックと
怖さも 感じました
多分 大丈夫 と思って 言葉を かける
そんな 配慮をしていただいていたんだ って
思うと こんなに 回復したのは
諦めない 私だけではない
諦めない 周りの方の支援があるから
回復したと 感謝しています
本人に 直接的ではない 関りも あるでしょうし
見ていて 苦しむ人に 優しい言葉を かけられる
その こころの 優しい方って
きっと いらっしゃるし その道のプロだとか
お仕事を されている方に
お任せする ことで 乗り越えらえる
そのような 社会でもあり
その形態もある なにより 相談する窓口が
多くなったことも ありますが
ご本人には どう伝わっているのか
私が 当事者である ことから 本当の暖かい言葉として
素直に受け取る時と
そこから その人にとって どうなるのかを
書きたいと思います
一番身近な 親族では 親 父親 母親 おじいさん おばあさん
という 年輩の方からの 見方とか
経験とかで 何とかしてあげたい と 思う時って
あると思います
私は 17歳で 発病し そこから 20年
子どもも いたとしたら 大きいですね
な年齢を 超えて そこから の回答でもあるのですが
親の言葉ほど 届かないものはない というのが
現実です けれど そこから どこへも行こうとはしない
どんどん 疲れるまで 話すことも めんどくさくなり
最後は 口をつけば 喧嘩になる
私の 場合は そうでした
特に 母親は 責任を 感じてか 強くなるばかりで
気を使って 聞いている私も
親によって くじかれることは 多かったです
なんでもない どこにでもいる 親子
そう 母と 私は そうでした
これも 20年かかって 恨みが無くなり
そして 一人で歩くときが 来たのでしょう
今になると 私が 何を 思っていたのかを
ちょっと 書けるので 参考にしてください
確かに 親は 生活を守り そして 子供を守っている
けれど 子供は もう 大人なんだよって
いつ 言えるの?
と 私は タイミングを 見ていましたが
それは 最後の最後まで 届きませんし 届くものではない
そう 落としどころを付けた時
これまでの 優しい言葉に 思い出しては
涙することもあります
素直にありがとう て 何で言えなかったのか
後悔先に立たずですよね
なので 上手く言う 上手く付き合う
悲しかった 結果を どうか 上手く 利用してください
私が 主治医に会う事や 主治医なら言える という 現実も
ありました やはり スペシャリストの 精神科のお医者さんは
別格です とっても 甘えてさせていただいたし
何でも 協力者でした
頭がいいとか 経験とかで とっても
都合よく 言いたい事を 言える あるがまま 言える
そこに 全てがかかっていました
けれど 家族には 通じないと 感じている方っていると思います
お医者さんのように それでは 食べていくことが無いうえ
それぞれに お仕事がある ある日 気づくと
親は もう 50歳ぐらい 60歳ぐらいになる時には
出来上がった 人間でした
そして そうとしか 見えない自分と
子どもとして 子供という 立場を 利用して
甘えることには ピカイチでした
けれど 私も40歳となると 当時
発病した 時の年の時 親は 40代だった
そう 計算する そんな時には
恨みなど 何も無いです
これは 上手くいったからであって
そうではないと 思うかもしれませんが
タイミングで 言葉を 交わす時に
信頼もできて 素直になることもある
そう 促すことを 学んでいると
トラブルも 少なくなる そう 思ってもらっていいです
あるがままに 受け入れるとか
自分には 責任がある と 厳しくする ことは
案外 無いと思います
統合失調症で 辛いのは できない自分に
腹を立てることです
そして やる気がなくなる 頑張る気が無くなる
それも 長く長い旅の中 治るのも
すぐではない
そう 心の中では 覚悟は できている 賢い当事者さんは多いです
私も メンタルだけで言えば 当時 17歳で
親をもしのぐ 強さが ありましたが それが
折れてしまい 発病しました
誰より 限界を知った時でもあります
そこから 頭は 子供帰りをしていて
親的には また 手で抱えるほど 愛しいと
思う いままでが 非常だったことも
許しあえた時でした
けれど これが そこから 20年もの間
ずっといられたかというと そうではないです
どんどん 年をとって 25歳 30歳 となると
できないことがある そのことにも だんだん 腹が立ちます
自分は いつの間にか 親の事など
オートマ や 流れ作業 のように
飽きてきていました
そこで 入院し そして 退院し
その繰り返しです なので 心から 感謝など
決別してから でした
そう 思いなおしたきっかけは 割り切ったからです
結果 プラスが 生まれていた
いくつか 本当に感謝することがある
そして いま 私が当事者として 言えることも
ピアカウンセラーとして 言えることも
割り切っている からでもある
ある意味 病気であることで やるべきことと
やらざるべきこと その 二つが 必要になることに
気付いてほしいと 思います
では どうすればいいのか
簡単にいかない ことでもある きっと もう
病気のせい にしていたくない
などが 私の心の中で いっぱいありました
それは 当事者として 苦しんだ時も
今 楽になって ピアカウンセラーを 目指していても
病気だけではない そしえ 病気が 原因ではない
という気持ちは すごく 強かったです
なので ごく普通にしていましたし わめき叫んだことは
少なかったです それも まだ 20代30代ならということですが
本人は ピリピリと 電波を 発していたのかもしれません
そんな時ほど 一触即発 すぐに 喧嘩になります
という 経験があっても いくらやっても
怒って どうなる ことは無いのです
それは 私の立場でも 母親の立場でも
同じでした 同じことで また 喧嘩する ことになることで
いつまでも 心の中に ある 親だったと思います
どこにでもいる 親子
そう 思います
けれど 最後は 決別 という道を 行くことになりました
絶縁です
それでも 良かった 今です
なにより 親として 接する 家族だと思う
そんな 居場所にいて 私は 学ぶことが いっぱいあります
いま 親のように 見ていてくださる 支援者さんや
それぞれに 居場所としての 立場にいる方とか
バランスは 本当に 補いあっていると
私は ここで 学ぶことが いくつもありました
残念ながら 家族や 友人には 絶縁となってしまったのですが
ここでの 出来事 今の B型事業所
カラフルラットでは 私には 今 とっても 素直になっている
素直に 話せる という 態勢が 出来上がっています
それに 頼ってばかりではない
割り切って 付き合う など とうとう 私は
心が もう 自分に出来ることなど 限られてきたのです
なので そんな 小さな 事が
一番の できる限りである 当事者がいうには
タイミングは 大切である ということ
そして 長い目で 見る ということ
今 私は 乗り越えたことがあります
精神病として 種類的に 治らない 病気
発達に対して 割り切ったのです
それは 友達ではなくなる ということです
けれど 理解できない 子には 友達だと 言う事です
嘘をついて 関わる ということですし
病気の子という ことを 抜きに出来ない
思想というもです
それは 当人には 病気であり
その対処は 必要だと うすうす 気づいていても
なかなか 実行できないし
そこから 私は 心を痛めていました
けれど そうではやってられないのも そうなのです
私は どこかで 友達で それでも いいよっていうのが
ある けれど やってられない そう
ある意味 積んだ荷物を下ろしたのです
な時から 解っていたのは そういうと
穏やかになる そう 収まる という 現場をみていて
何度も 同じことをする 支援者さんを見ては
おぼえたことでもありますし
私自身 この 20年の闘病で であった 医療従事者さんとの
関りの中で 当然 あったことも
今 鏡のように 映る事でもあります
心の中で 傍にいることも よいけれど
現実で 傍にいることも 良いのではないでしょうか
いろんな 方が それぞれに 答を出すことで
進んでいく 事でもありますから
私は 私のタイミングで 良し ということもあり
そして それぞれに 良い タイミングがあります
けれど 病気である ことに
先の見えない 不安に 寂しさに
心でぶつかっても どうしようもない ということです
スキルとして 徐々に 理解する
そう 心に 決めないと 私は 生きていられませんでした
それが 現場の 私の関りであり ここからが 始まりです
それは このままでいたかったと 泣いている自分に
容赦なく 心の中の 本当の 自分に目覚める時
という 時が 来た
そして 目の当たりにする 自分の 自分への仕事でもあるのです
いったいどうすれば という 事を 思ったのは
決して 解っていないからではなく
一筋の 可能性を 自分との関わりの理想が
崩れる 崩したくない と思うがために
傷つけ 傷つき そして 喧嘩になる
その 負のサイクルが どうしても 人間とか 家族の中で
それこそが 愛だよ って 言えることでもあるけれど
実際には 上手くやる 上手く付き合う
そう 繋がる ということが きっと 楽であり
私のように 絶縁とはならないかもしれません
ここで 学ぶとき 母の顔がいつも 思い浮かびます
叱られる ことがある けれど ここでは
配慮され 環境は良くされる
その 都合のいい ことが 何を もたらすのか
いっぱい 悩みました が
簡単でした
私が 多くの人の中で 生きようするなら
その場限りなど いっぱいある という 現実に
社会に乗る 事ができるためには
周りのサポートをも 自分のものにすればいい
そして そこから 伸びるなら
割り切って 対応することで 余計なものは無くなる
自分からの 景色のいい場所にして
悪くない
それが タイミング的にも良い 方向へ向かえる
そんな 切り開く 力を付ける事
それは どちらともですが
私は あえて 自分が 変ることに 勤めることに
しました
その時 きっと 自分の中で 人道的ではないって
思うけれど
きっと それが 私の求めている 世界につながる
私が 変ることにしたのは 変りたい事は
これだったと 気づいたのです
ここ3年で 思い出す それまでの 家族が
はっきりと 忘れてもいいぐらいの 時間をかけて
絶縁となりましたが
親のようにはしない と 心は決まっていました
それが 親子で 最後の愛です
なにかと 理解しがたい でしょうけれど
そして ピアカウンセラーでありながら 突き放していることも
事実ですが 専門性を持つなら そういうことです
と・・・辛口でしたが
ここまで読んでいただき
ありがとうございました。