誰も食べようとはしない「あんこまパン」サンドイッチ。

 どうも切り口からこぼれ出したあんこの中に白く練乳のように見えるマヨネーズが視覚に入ることが食欲を減退させているようだ。

 表が駄目なら裏口へ回ればいい、パンの耳の方から一気に食べた!。

 いける! 微妙 いける! やっぱり、あ、でもいける!って感じですかね。

 要はここになぜマヨネーズなのかという疑問が常にあって、しかしマヨネーズも合わないことはない、しかしホイップや練乳ならもっと美味しいのではないだろうか、でもマヨネーズの酸味も人によっては好みかなと。


 結論、あんこにホイップなら90点、あんこに練乳なら80点、あんこにマヨネーズは55点、不可です。

 何かが欠けている、又は何かを消さなければいけないと感じるということはマヨネーズに問題があって、なぜマヨネーズなのか、その必要性が疑問であるため不可とします。


 結局全部食べちゃいました。


 美味しいざるそばが食べたいよー、正直な感想です。 

 りんぼう先生は大変頑固な料理研究家でもある。

 その頑固さは、著者名を見ずに読んでいたなら絶対に抗議していたかもしれないと感じるような意固地で頑固な著作があるといっていい。

 まあ名前に負けて納得するのではなく、そういう考え方もあるかなと自分自身の許容範囲を広げることにもなっているのだからやはり恩師と呼ぶのが妥当かもしれない。


 そんなりんぼう先生の著書「音の晩餐」(集英社文庫)に「あんこまパン」なるもののレシピが載っている。

 大抵の料理はその具材と調味料を見れば味は想像出来るものだがこの「あんこまパン」は全てよく知っている具材と調味料なのだが美味しいかどうか判断しかねる。

 レシピはこうだ。

 ・ サンドイッチ用の薄切りパン

 ・ こしあん(こしあんに限る、とりんぼう先生は書いているが料理評論家cologneはつぶあんでもよしとする)

 ・ マヨネーズ(QPに限ると、りんぼう先生は書いている外弟子cologneは教えを守ります)

 ・ バター(りんぼう先生はなにも書いていないがバターでなければならぬ、マーガリンや無塩バターなどとんでもない!師匠のりんぼうが許しても弟子のcologneが許しません)


 話が横にそれるが10年くらい前から植物性マーガリンを止めて動物性バターに変えた。

 植物性というもののメリットに疑問を感じたことと動物性バターのこくと旨みは植物性では絶対に味わえないからだ。

 だからいつもcologneの冷凍庫には雪印のバターが10箱程度は冷凍保存してある。

 なぜ?ないと寂しいからに決まっている。


 話を戻して、調理方法はいたって簡単、パンに薄くバターを塗る、その上に冷蔵庫で冷やしたあんこ(こしあんorつぶあん)を厚みが1cm程度になるように塗る。

 この上にキューピーマヨネーズを適宜載せる。そして上からパンを重ねて出来上がり。

  

 

 それがこの「あんこまパン」だ!。

 

 あんこまパン



 どうです、美味しそうでしょう???

 

 

 是非作った方、食べた感想聞かせてください。

  

 cologneまだ作っただけで食べていません。

 どんな味か想像できないもの、そんな簡単に食べれるわけないでしょう!。

 

 今夜夜食のとき頑張って食べるつもりです、感想はその後アップします。


 

 大阪ではPLの花火も終わりcologneの好きな夏のイベントも残すは、8月16日京都「五山送り火」だけとなってしまった。

 「大文字」やひどい方は「大文字焼き」なんて呼ぶ方もおられますが、正式名称は「五山送り火」です。


 夏のおわりといえば思い出すのが矢沢永吉さんのコンサート。

 ここ20年以上LIVE聴いていないので、最近の曲は全く知らないけど。

 

 オープニングからアップテンポな曲でガツンと掴んでおいて、中ほどではアコギで失った友を偲んだ「雨のハイウェイ」やバラードで、いかつい野郎共を泣かせ、最後の最後に歌ってくれたのが「ADAY」。


 

  暗い闇の果てに 蒼い月の光
  浮かぶ君に出会うまで 長い時が過ぎた
  君の頬につたう 過ぎた日の涙
  でも もう これっきり すべてさよならさ

 

  Oh My Love 二人きり 見つめあう
  Oh My Sweet いつまでも 月に抱かれて

   

 

  昨日までのことも 明日からのことも
  何も思わず 君とだけ 月の光の中

  二人ならば きっと うまくゆくさ
  君の悲しい涙に もう さよならさ

  

  Oh My Love 忘れよう 言葉は もう
  Oh My Sweet いつまでも 月に抱かれて

 

 

 

 この曲を聴きながら思ったこと「学校辞めずにちゃんと明日から行くぞ!」だった。

 cologneにバラードの素晴らしさを教えてくれたのは間違いなくBIG矢沢永吉その人。

 

 

  PS

 タイマイにとっての氷室京介さん的な存在かな。



 先日用事があって大阪心斎橋大丸まで出かけた。

 御堂筋を挟んだ向かい側に大丸百貨店の契約駐車場があった。

 ここは7階建の一方通行タイプのスキップ式駐車場。

 このタイプの駐車場には苦い思い出があったがやむを得ず駐車した。

 この日は幸い楽に出庫出来たのだが・・・。

 日記ジャンルへの変更最初の投稿は全然めでたくもなんともない話からどうぞ。


 関西で12月のビッグイベントといえば今や「神戸ルミナリエ 」。

 点灯開始は一斉だがそのあとは自由に散策する人、食事する人早めに引き上げる人等まちまちだ。

 その日は土曜日だったので元町もかなりの人人出で賑わっていた。

 そのためルミナリエ渋滞も考慮して少し離れた8階建てのスキップ式駐車場 に車を停めた。

 夕方ということもあって下のフロアは既に満車で7Fしか空きがなかった。

 スキップ式なので入庫して上階へ上がる車と出庫で下りる車が同じ通路を通るタイプの駐車場。

 出庫する車の出口がちょうど信号機のある場所なので4台くらいの車が出庫通路で信号待ちしていた。


 そして「神戸ルミナリエ」を楽しみ食事も終わって9時過ぎ、少し早めだが帰りの混雑も考えて早めに引き上げることにした。

 駐車場に戻ると出庫待ちの車がかなりの台数で信号が変わるのを待っていた。

 ちょっと出庫するのに時間がかかりそうだな、早めに切り上げて正解かも、そんな気持ちで自分の駐車した7Fに上がった。

 エンジンをかけて車を発進させて最初の角を曲がるまでわずか7m。

 角を曲がったところに車が止まっていた。

 こんなところまで出庫の車が行列しているのか、驚いた。

 これは駐車場から出るだけで20分くらいかかるかもしれない、早めに引き上げてきたのは大正解。

 後から車に戻ってくる人たちはもっと出庫に時間がかかるだろう。

 出庫待ちとはいえ渋滞を回避出来たと思い余裕で車の列が動き出すのを待っていた。

 30分経過・・・全く動かない。

 1時間経過・・・全く動かない。

 夜の10時をとうに過ぎて、もうほとんど11時前になっていた。

 今頃下の階に駐車していた車のドライバーたちはみんな駐車場に戻ってきて出庫するための順番待ちで1階から7階まで延々行列しているのではないか!。

 12時近くになってゾロゾロと車の列が動き出した、6階通過ほとんど空車、5階通過空車、以下同文。

 結局神戸で過ごした時間の半分以上を駐車場の動かない車の中で過ごした。

 あー、こんなことならもっとゆっくり「神戸ルミナリエ」を楽しんで屋台でいろんな美味しいの食べて時間過ごせばよかった。 orz

 高層式のスキップ式駐車場で「ルミナリエトラウマ」はこうしてcologneを蝕んだのであった。

  


 教訓

 

 高層階に駐車するときは帰りを急がず、遅くまで楽しく過ごしましょう♪。

 8月1日からジャンル「ギャンブル」から「日記」に変更します。

  

 「ギャンブル」ジャンルの方々には大変お世話になりました、お礼申し上げます、ありがとうございました。

 

 

 「葉桜」さんには、「cologneはここで待っています」と約束したのに守れなくてすみません。

 

 20世紀後半、かつての植民地であった地域の出身者が、再び労働者として新たにイギリスに移民してきた。

 高度な大人社会であるイギリス(中上流階級生活者)は彼らに英国籍を与えコミュニティー単位で統計を計り、表現の自由も保障した。

 もっとさかのぼった昔、インド及びその周辺国から、多くの人々ががイギリスに移民してきた。

 しかし彼らは独自の集団生活団体として生活し、一般のイギリス社会にはほとんど溶け込まなかった。

 しかしイギリスは長い植民地支配の経験から、異民族の文化を否定し、彼らに同化を強要することは激しい抵抗にあうことを熟知していたので、異なる文化を持つコミュニティーに平等な権利を保障し、多文化主義を成立させてきた。

 実際その当時の移民集団は20世紀後半に移民してきた人たちとは異なり、静かにイギリス社会の中の異文化集団として暮らしてきた。

 

 そんな中、イギリス中部ブラッドフォードやリーズの工業地帯は繊維産業の衰退とともに経済が停滞し、パキスタン系移民のの若者たちに閉塞感が強まっていた。

 人種差別だけではなく「9.11テロ」以降はイスラムに対する嫌悪に直面させられた。

 これについては高度な大人社会といっても繊維不況により労働者を解雇していく場合、どうしても経営者サイドとしては自分たちの社会に溶け込まない異民族、異宗教の人間を選んだことは、いたし方なかったことだろう。


  そして遡れば80年代「悪魔の詩」の著者サルマン・ラシュデイ氏にたいしてホメイニ師が死刑を宣告したさい起きた騒乱はブラッドフォード、そして今回の事件の容疑者たちが暮らしていたのはブラッドフォードに近いリーズ。

 これらの若者の中に満たされぬ想いを来世での幸福に託し、イスラム回帰を求めたのは自然な流れだったといえる。

 つまり母国の過激なイスラム教徒が米英軍の攻撃や指導者拘束を恐れ、イギリスのこれらの地方に逃れ、テロをイスラムの敵と戦う「ジハード」だとささやき続けることで信仰を暴力へと誘導したと思われる。

 98年、エジプトのルクソールでのテロ事件もムバラク政権のイスラム弾圧に端を発している。

 こういった事件やブレア政権下のイギリスのイラク戦争参戦により、かつての民族的同胞が虐げられる事態に、イギリス国籍を持っているという帰属意識よりも遥かに強いムスリムとしての覚醒をもたらしたのではないだろうか。


 上記の内容については一橋大学教授の内藤正典氏が今回のロンドンの爆破テロに関して見解を述べておられたのを拝読し、非常に興味深い内容だと感銘を受けたので是非紹介したいと思い要点を集約したものである。

 

 直接対策的なことを書くのではなく、イギリスという高度な大人社会の国にテロが芽生え、実行に至るまでの経緯を推測し分析したものだ。

 

 異文化に寛容ではないフランスでは、フランス社会に適合したイスラムに変容させようとして一部のムスリムの強烈な反発にあっている。

 そして一方、異文化に寛容であったはずのイギリスでこうしたテロ事件。

 多文化主義や同化促進ではテロリストが育たない土壌を作るには限界があることが立証されたのが今回の事件だ。

 これから非テロ社会を作り上げていくにはムスリムが肌で感じている不公正感を認めて緩和し、異質として放置する姿勢を改め、相互交流による相互理解以外に和解し、共に平等に平和に暮らす道はないのではないか。


 「理想論」、「机上の空論」として、こういった考え方を否定することは容易い。

 しかしテロ事件の犠牲者を慈しみ、加害者を憎むだけではなにも生まれない、解決しない。

 自分は無宗教だが、宗教は否定するものであってはならないと考えている。

 宗教の教えが悪いのではないはずだ、それを解釈する人間の側に問題があるだけだと考えているのだが。



 最後に

 

 政治的・宗教的なことについて出来る限り片寄った表現や批判をしないように配慮したつもりですが、問題点等がありましたらご指摘ください、検討のうえ改めさせていただきます。

 久しぶりにプロ野球、阪神タイガースの話。

 昨日「巨人VS阪神戦」のTV中継を見ていて阪神タイガースは巨人相手に戦っているのではないと感じた。

 もちろんいずれ決着をつける中日を見据えて戦っているわけでもなかった。


 遥か彼方にいる本当の強敵スフトバンクホークス、それに対抗出来る投手力を誇る千葉ロッテ、この2チームを相手に日本シリーズを勝つにはどうすればいいか、そんな高みを胸に戦っているように感じた。

 

 全部の試合に勝てるわけではないのに負けたゲームにさえ勝機を見出せるような気迫と集中力。


 勝敗は別にして、ソフトバンクホークス打線と阪神投手陣の対決、ロッテ投手陣とタイガース打線の対決、どちらも見てみたい。

 ニュ-ヨ-クが誰より似合う奴、夜がとても似合う奴、そんなビリー・ジョエルの元気な姿を再び見たいものだ。

 彼の73年の作品「ピアノマン 」。

 この曲がこんなにも憂いを含んだもの悲しく寂しい曲だったなんて、若い頃にはわからなかった。

 こんな驚きがあるなら、歳とっていくのも悪くないかな、なんて思った今日の午後。

 

 

 ピアノマン  ビリージョエル

  

土曜日の夜9時
見慣れた奴らが集まってくる頃
一人の老人が隣に座ってジントニックのグラスを撫でている


若いの 思い出のようなのを弾いてくれないか
どんな曲だったか忘れてしまったけど
少し悲しいげでほろ苦い味だったやつだ


歌ってくれピアノマン
今夜は俺たちのために歌ってくれないか


政治学を勉強しているウエイトレス
今夜もまた酔いつぶれていく企業戦士たち

彼らは「孤独」と呼ぶ名の酒を酌み交わしている
それでも一人で飲むよりはまし


そのピアノの音色はまるでカーニバルのようににぎやかで

マイクにはビールの匂いが染みついていく
そして彼らはカウンターに座ってこう言うんだ
ところで きみはここで何をしているんだ 



 PIANOMAN  BILLY JOEL

 


It's nine o'clock on a Saturday
The regular crowd shuffles in
There's an old man sittin' next to me
Making love to his tonic and gin

He said, son can you play me a memory
I'm not reall sure how it goes
But it's sad and it's sweet


Sing us a song you're the piano man
Sing us a song tonight


And the waitress is practicing politics
As the businessmen slowly get stoned
Yes they're sharing a drink they call loneliness
But it better than drinking alone


And the piano! it sounds like a carnival
And the microphone smells like a beer
And they sit at the bar and put bread in my jar
And say, man! what are you doin' here

 今日はこのブログタイトルにも大きく関係しているキング牧師と、サイモンとガーファンクルの話。

          キング牧師

           マーティンルーサーキングJr キング牧師

人種的、宗教的にも異なる二人がアメリカの近代史に政治的、音楽的にどう関わったのかを簡単に振り返ってみた。

サイモン&ガーファンクル

 サイモン&ガーファンクル


 アメリカ大陸を発見したのは確かにコロンブスかもしれないが、ここを新大陸と実証したのは、アメリゴ・ベスプッチという人物。

 そして新大陸にアメリカ(America)という名前がついた。


 「アメリカ人という定義を考えるといやな気持ちになる。この定義はみんなが平等じゃない。少数民族を含んでいないからだ。」

 かつてポールサイモンが言った言葉だ。
 サイモン&ガーファンクルは、このアメリカで生まれ、育った。

 ユダヤ人は、全世界で約1300万人。

 世界の人口のからみれば0.2パーセントでしかない。

 アメリカに住むユダヤ人はこの内、約500万人。
 ポール・サイモンもアート・ガーファンクルも両親はともにユダヤ人だ。

 しかし彼らは、ユダヤ教の厳格な環境に反発した。


 「どう考えてもユダヤ人として行動しなければならない理由が分からなかった。どうして普通のアメリカ人として呼吸しちゃいけないんだろうと思っていた。」


 このことはポールの作品「霧のブリーカー街」に書いている。
 彼らは、当初いかにもユダヤ人の名前であるサイモン&ガーファンクルという名称を嫌った。

 ユダヤ人であるということはいろんな場合において、ときにバッシングの対象とされるからだ。

 それは同じユダヤ人のボブ・ディランもロバート・A・ジマーマンという本名を隠していたことからもうかがい知ることができる。

                ボブ・ディラン

                 ボブ・ディラン


 一方、黒人女性が白人乗客に座席をゆずるのを拒んで逮捕されるという人種差別的事件をきっかけに、黒人牧師「マーティン・ルーサー・キング/Martin Luther King Jr.」通称「キング牧師」を指導者として、公民権運動は一気にアメリカ合衆国全土に拡大した。
 結果、非暴力直接行動の勝利で、キング牧師 は公民権運動の指導者として注目されることになった。
 1963年、キング牧師が25万人のデモ隊とともにワシントンまで大行進をする。

 ここに公民権運動はピークを迎える。
 

 そんな1965年の夏、公民権運動に参加していたポール・サイモンの大学時代の親友らが殺害されるという事件が起こる。

 
 ポール・サイモンは大きなショックを受け 「He Was My Brother/私の兄弟」を書いた。


 この頃、黒人の集まる多くの教会が焼き討ちという卑劣な被害に遭う。
 1968年、キング牧師が暗殺者の凶弾に倒れる。

 

 「He Was My Brother/私の兄弟」
 「A Church Is Burning/教会は燃えている」
 

 これらの曲はこのことを書いたものだ。


 そして名曲「America/アメリカ」はこうした中で生まれた。
 

 怒りを抑えた静かなメロディーにより深いものを感じるのは自分だけだろうか。



 以下は参考文献からの抜粋である。


 当時、体制を批判し公民権運動を支持する、こうしたプロテスト・ソングは数多い。
 現在の若者に単なる " 風流な歌 " と誤解されやすいボブ・ディランの " Blowin' in the wind " <風に吹かれて> (後に " PPM (ピーター・ポール&マリー) "によりカバーされて大ヒット) も 『 議論が風のように舞い上がっている状態 』を風刺した曲と言われている。

PPM

 P・P・M (ピーター・ポール&マリー)

 1952年、ニューヨークでアラン・フリード ( Allan Freed ) というDJが『ムーン・ドッグ・ショー』( " Moon Dog Show " )という番組をやっていた。
 番組のタイトルはマンハッタンにいた有名な乞食の名前から来ている。ある日、裁判所からの命令で番組名を変えることになった。
 

 そこで彼は、『アラン・フリードのロックンロール・パーティー』( " Allan Freed's Rock'n'Roll Party " )にしようということにした。

 この時、初めて 『ロックンロール』 という言葉がこの世に生まれた。

 それ以降、カントリー、ブルース、デュワップといった音楽すべてロックというようになった。」 (ポール - " Paul Simon Solo ")

 セックスを意味するスラング " rock and roll " にヒントを得てアラン・フリードがこれらの曲を、 " rock'n'roll " と呼んで紹介したのがその起源といわれている。
 この時代、アメリカではまだ人種差別の意識が強く、白人がR&Bなどロックンロールの原点となった黒人の音楽に手を出すなどということはありえなかった。
 そういう中、白人がロックンロールを歌い、大きなビジネスへと展開させ、白人と黒人の若者たちが同じ音楽を楽しむということは、それまでの慣習を大きく打ち破る衝撃的なものであった。
 つまり当時、アメリカ社会で蔑視されがちだった人種的・社会的差別に対するムーブメントの一つが" ロックンロール "でもあったのである。
 その中心が、" キング・オブ・ロックンロール - エルヴィス・プレスリー " の存在であり、ポールにとってプレスリーは多くの若者同様、アイドルであった。


エルヴィス・プレスリー

  エルヴィス・プレスリー


 「僕がギターを始めたのは、プレスリーのようになりたかったからだ。」
 「僕は、憧れのエルヴィスが着ていたラベンダー色のシャツが欲しくてニューヨーク中を探し回ったことがある。」


1950年代、" Hudson River " と " East River " (イーストリバー ) に挟まれたニューヨークにフォーク・シーンの聖地があった。
 " Broadway " (ブロードウエイ)の南にある " Greenich Village " (グリニッチ・ビレッジ)、とりわけ" Bleecker Street " (ブリーカー・ストリート) と " Macdougal Street " (マクデューガル・ストリート)が交わった一帯である。
 ポールとアートだけでなく、ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリー、レナード・コーエンなど若手フォークのシンガーたちは毎晩ここで歌っていたという。

 
 この頃、アメリカの若者の風俗や周囲を流れるロックンロールは、1959年については映画 『 スタンド・バイ・ミー 』 ( "Stand by Me " - 製作1986年、監督ロブ・ライナー、原作スティーヴン・キング ) で、1962年については映画 『 アメリカン・グラフィティ 』 ( " American Graffiti " - 製作1973年、監督ジョージ・ルーカス) でうかがい知ることができる。


 こうやって簡単にアメリカの直近近代史を駆け足で振り返るだけでも音楽や映画に人種・宗教・事件というものが大きな影響を受けていることが容易に想像出来る。

 「9.11」や今回の「ロンドン地下鉄同時爆破テロ」についてもそれは当然のごとく影響を及ぼしてくることになるのだろう。


 最近談合容疑による大物逮捕者が出たので建設業者も一見自粛しているように見えるが、どっこい談合はなくならない。

 一般市民から巻き上げた巨額の税金を設備投資という形で動かすことによって、この資金の中から政界へと流していかなければならない費用を確保するためにも、業者同士も工事の安定受注を確保したいからだ。

 たまに目立ちすぎた大物の中の小物だけが、見せしめ的に逮捕されるのでしばらくの間だけ自粛したように見えるだけ。

 これが大手といわれる業者の裏側だが表の顔。


 公共工事は誰もが名前を知っているゼネコンといわれる大手建設業者がほとんどの工事を落札するが、実際現場で作業するのはほとんどが下請け孫請けといわれる小規模の土建屋といわれる業者の作業員。

 役所がなにか公共事業を発案し、設計する段階で必ず設けるものに「安全係数」がある。

 通常考えうる重量限界を算出したうえに、さらにこれだけ上乗せすれば計算外の事態にも耐えられると考えられたのが安全係数。

 そしてそれを逆手にとる悪質業者がいるのもまた現実。

 全ての業者がそうだとは言わないが、同じ強度ならば安く仕入れが出来る材料を使いたくなるのが人情。

 ここでまず指定された材料以外のものが使用される可能性が生まれる。

 次に孫請け等の、実際に作業する業者、現場で発生した廃材等はすべてきちんと処分しなければならないし、最近は厳しいシステムになっているので簡単ではないが、どんな場合でも抜け道はある。

 そんなこんなで安全係数を逆算した、手抜きといわれる工事が行われているのも現実。

 具体的にどこが、どれがなんてことは証明出来ないが、一つの可能性として注目してもいいと思えるのが埋立地の「地盤沈下」現象。

 埋立地に埋設する土砂の選別や順序、量などについて設計者は万全の計画を立て安全係数も3割増しにしたとする。

 1のものが1.3になるわけだから計算上の地盤沈下度が1mならば約70cmで沈下は治まるはずだ。

 もちろん地盤という自然が相手なので想定外のことが起こる場合もあって当然だ。

 しかし想定外の地盤沈下が多すぎる。

 これだけ地質学や計算が正確になってきた時代に、あまりにも想定を超える地盤沈下が多すぎるのもまた現実。

 ここで仮に、施工する業者がどの段階かは不明にしても、実際の設計に対して3割の手抜きがあったとしたなら、安全係数計算後の1.3に対して3割の手抜きが実施されればその答えは0.91、最初の1を下回ることになる。

 これはいくら安全係数を上げても同じ結果になると考えられる。むしろ危険度が増すだけといえるだろう。

 

 自分たちが手抜き工事をしたことで大変な事故が起こるかもしれない。 


 これさえ人間のモラルとして守っていれば問題の本質は極めて単純なことなのに。


 多くの建設業に携わる業者は真面目にきちっとした仕事をされています。しかし悪質な業者、人間が存在していることもまた事実です。

 なかには公共工事以外で、仕事はきちっとしているが高額な見積もりや請求をする業者もいます。

 みんなが見つめる、みんなが注目することがこういった問題を少しでも減少させていくもっとも有効な手段ではないでしょうか。


 腐りきっていたどこかの公団でさえ、腐った中にも、まだ新芽と呼べる段階にはなっていなくても、将来新芽になる可能性のようなものは確実に細胞分裂を繰り返しながら形成されていっているのではないかと期待しています。