今日はこのブログタイトルにも大きく関係しているキング牧師と、サイモンとガーファンクルの話。
マーティンルーサーキングJr キング牧師
人種的、宗教的にも異なる二人がアメリカの近代史に政治的、音楽的にどう関わったのかを簡単に振り返ってみた。
サイモン&ガーファンクル
アメリカ大陸を発見したのは確かにコロンブスかもしれないが、ここを新大陸と実証したのは、アメリゴ・ベスプッチという人物。
そして新大陸にアメリカ(America)という名前がついた。
「アメリカ人という定義を考えるといやな気持ちになる。この定義はみんなが平等じゃない。少数民族を含んでいないからだ。」
かつてポールサイモンが言った言葉だ。
サイモン&ガーファンクルは、このアメリカで生まれ、育った。
ユダヤ人は、全世界で約1300万人。
世界の人口のからみれば0.2パーセントでしかない。
アメリカに住むユダヤ人はこの内、約500万人。
ポール・サイモンもアート・ガーファンクルも両親はともにユダヤ人だ。
しかし彼らは、ユダヤ教の厳格な環境に反発した。
「どう考えてもユダヤ人として行動しなければならない理由が分からなかった。どうして普通のアメリカ人として呼吸しちゃいけないんだろうと思っていた。」
このことはポールの作品「霧のブリーカー街」 に書いている。
彼らは、当初いかにもユダヤ人の名前であるサイモン&ガーファンクルという名称を嫌った。
ユダヤ人であるということはいろんな場合において、ときにバッシングの対象とされるからだ。
それは同じユダヤ人のボブ・ディランもロバート・A・ジマーマンという本名を隠していたことからもうかがい知ることができる。
ボブ・ディラン
一方、黒人女性が白人乗客に座席をゆずるのを拒んで逮捕されるという人種差別的事件をきっかけに、黒人牧師「マーティン・ルーサー・キング/Martin Luther King Jr.」通称「キング牧師」を指導者として、公民権運動は一気にアメリカ合衆国全土に拡大した。
結果、非暴力直接行動の勝利で、キング牧師 は公民権運動の指導者として注目されることになった。
1963年、キング牧師が25万人のデモ隊とともにワシントンまで大行進をする。
ここに公民権運動はピークを迎える。
そんな1965年の夏、公民権運動に参加していたポール・サイモンの大学時代の親友らが殺害されるという事件が起こる。
ポール・サイモンは大きなショックを受け 「He Was My Brother/私の兄弟」 を書いた。
この頃、黒人の集まる多くの教会が焼き討ちという卑劣な被害に遭う。
1968年、キング牧師が暗殺者の凶弾に倒れる。
「He Was My Brother/私の兄弟」
「A Church Is Burning/教会は燃えている」
これらの曲はこのことを書いたものだ。
そして名曲「America/アメリカ」 はこうした中で生まれた。
怒りを抑えた静かなメロディーにより深いものを感じるのは自分だけだろうか。
以下は参考文献からの抜粋である。
当時、体制を批判し公民権運動を支持する、こうしたプロテスト・ソングは数多い。
現在の若者に単なる " 風流な歌 " と誤解されやすいボブ・ディランの " Blowin' in the wind " <風に吹かれて> (後に " PPM (ピーター・ポール&マリー) "によりカバーされて大ヒット) も 『 議論が風のように舞い上がっている状態 』を風刺した曲と言われている。
P・P・M (ピーター・ポール&マリー)
1952年、ニューヨークでアラン・フリード ( Allan Freed ) というDJが『ムーン・ドッグ・ショー』( " Moon Dog Show " )という番組をやっていた。
番組のタイトルはマンハッタンにいた有名な乞食の名前から来ている。ある日、裁判所からの命令で番組名を変えることになった。
そこで彼は、『アラン・フリードのロックンロール・パーティー』( " Allan Freed's Rock'n'Roll Party " )にしようということにした。
この時、初めて 『ロックンロール』 という言葉がこの世に生まれた。
それ以降、カントリー、ブルース、デュワップといった音楽すべてロックというようになった。」 (ポール - " Paul Simon Solo ")
セックスを意味するスラング " rock and roll " にヒントを得てアラン・フリードがこれらの曲を、 " rock'n'roll " と呼んで紹介したのがその起源といわれている。
この時代、アメリカではまだ人種差別の意識が強く、白人がR&Bなどロックンロールの原点となった黒人の音楽に手を出すなどということはありえなかった。
そういう中、白人がロックンロールを歌い、大きなビジネスへと展開させ、白人と黒人の若者たちが同じ音楽を楽しむということは、それまでの慣習を大きく打ち破る衝撃的なものであった。
つまり当時、アメリカ社会で蔑視されがちだった人種的・社会的差別に対するムーブメントの一つが" ロックンロール "でもあったのである。
その中心が、" キング・オブ・ロックンロール - エルヴィス・プレスリー " の存在であり、ポールにとってプレスリーは多くの若者同様、アイドルであった。
エルヴィス・プレスリー
「僕がギターを始めたのは、プレスリーのようになりたかったからだ。」
「僕は、憧れのエルヴィスが着ていたラベンダー色のシャツが欲しくてニューヨーク中を探し回ったことがある。」
1950年代、" Hudson River " と " East River " (イーストリバー ) に挟まれたニューヨークにフォーク・シーンの聖地があった。
" Broadway " (ブロードウエイ)の南にある " Greenich Village " (グリニッチ・ビレッジ)、とりわけ" Bleecker Street " (ブリーカー・ストリート) と " Macdougal Street " (マクデューガル・ストリート)が交わった一帯である。
ポールとアートだけでなく、ボブ・ディラン、ピーター・ポール&マリー、レナード・コーエンなど若手フォークのシンガーたちは毎晩ここで歌っていたという。
この頃、アメリカの若者の風俗や周囲を流れるロックンロールは、1959年については映画 『 スタンド・バイ・ミー
』 ( "Stand by Me " - 製作1986年、監督ロブ・ライナー、原作スティーヴン・キング ) で、1962年については映画 『 アメリカン・グラフィティ
』 ( " American Graffiti " - 製作1973年、監督ジョージ・ルーカス) でうかがい知ることができる。
こうやって簡単にアメリカの直近近代史を駆け足で振り返るだけでも音楽や映画に人種・宗教・事件というものが大きな影響を受けていることが容易に想像出来る。
「9.11」や今回の「ロンドン地下鉄同時爆破テロ」についてもそれは当然のごとく影響を及ぼしてくることになるのだろう。