僕たちは目の前の出来事やものを何かと比較しないと認識できない。
コーヒーカップに入ったコーヒーはコーヒーじゃないものと比較しないとコーヒーだと言えない。
かつて、カップにコーヒー以外のもの、例えば紅茶が入っていたのを経験して、味わって、コーヒーとは違うということを知っているから、認識できるんだ。
あるいは、このコーヒーカップに醤油が入っていたらどうだろう。
急いでいたら、認識できないかもしれない。
でも、通常コーヒーカップに醤油は入れないことになっている、ことを知っているから見ただけでコーヒーだと認識する。
口を近づけて、匂いを嗅ぐ。
コーヒーの匂いじゃなくて、醤油の匂いだったら。
醤油のにおいも知っているから、これは醤油じゃないか?と疑うのだ。
知らなかったら、コーヒーの匂いじゃないぞ、なんだなんだ?となる。
つまりは、通常、コーヒーカップに黒い液体が入っているとコーヒーだと経験上認識しているから、その類似性からこれはコーヒーだと断定する。
醤油の匂いがしてたらビビるわけだ。
そうやって、それではないも のと比較することで僕たちは目の前のものを認識する。
出来事も同じ。
類似した出来事から判断するのだ。
何が言いたいかというと、僕たちは経験したものからできている。
そして、それは言葉でできているのだ。