生き残った意味 | コリンのブログ

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「膵腺房細胞癌」でこのブログにたどりついた方がいましたら、2014年5月20日以降の「お母さん」というテーマで書いてます。

阪神淡路大震災

 

1995年1月17日のこと、覚えています。

いつものように朝テレビをつけて、「関西方面で大きな地震があった」という情報だけを見て学校に向かいました。学校から帰ってきて新聞を見て、想像以上に大きな地震だったこと、時間がたつにつれ尋常ならざる被害が発生していることに大きな衝撃を受けたのを覚えています。

 

今朝、テレビを見ていたとき、「自分だけ生き残った意味を考えて、苦しくなっている。」という言葉が耳に入ってきました。

 

雪の結晶 雪の結晶 雪の結晶 雪の結晶 雪の結晶 雪の結晶 雪の結晶 雪の結晶 雪の結晶 雪の結晶

 

生き残った意味などないんだよ、と伝えたい。

この考えを言葉にして伝えるのは難しい。

 

無意味だと言っているのではない。

投げやりな考えになれという事でもない。

「生き残った意味」という枠に捕らわれないで欲しいという願いである。

 

生き残った意味を考えて苦しくなるのは、周囲の状況がそうさせるのである。「きっと意味があるのに違いない」と考え、「意味」というその枠の中のどこかに居場所をみつけようとするのである。

考えることは当たり前だし、人であるが故に探求心は必ず備わっているものだ。だから、たとえ答えが見つからなくても、考え抜くことは大切なこと。ただ、その枠に捕らわれてはダメだよと伝えたい。

 

なぜなら「生き残った」わけではないから。

ただ今、生きているだけのこと。

そこには大きな理由などないのである。

だから誰かの分まで生きようとする必要もないのだ。

死んでしまった誰かは、その人にとって、とても大切な存在ではある。しかし、その人の人生の為に自分がいるわけではない。自分の人生の中にその人がいるのである。その違いこそを、考えてほしい。

どうか心を持っていかれないでと、強く願う。