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ここ数日、どうでもいいブログをアップしている
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理由はね、PC画面右下の「月別」ブログが過去すべて2桁だから。
その月の記事が1桁だと、画面上でずれちゃうでしょ
![](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/146.gif)
ということで、今月10個目のブログを書いてしまおう。
今日考えたことはね・・・
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「釈尊の入滅から約100年後、教団は戒律をめぐる解釈の違いから、様々に分裂してしまう。」という一文を読んだ。
100年・・・。
たった100年で、分裂してしまう仏教に当時の人々は何を求めたのだろう?
この世は「一切皆苦」と説いた釈尊は、何をもって涅槃を求めたのだろう。そこに「愛」はあったのだろうか。ありとあらゆる事物に愛があるなら、「人という存在には決して涅槃に踏み込む事はできない」とは考えなかったのだろうか。
日本人が死んだ後に必要とするのは、本当に仏教の葬式だろうか。
一生一度の命なら、慣習に流される儀式より、己の考えに納得して、最期を終いたいと私は考える。
生きていくために、そして国を安寧へと導くために、あの時代には仏教という1つの考えが必要だったのだと思う。それは本当に大切なことの一つだったのだと思う。
しかし今、日本において、個々において、あらゆるものが豊かになった今、仏教では抑えきれないと感じる。さらにその向こうへいくための「道」が必要なのだと感じる。
自分の先祖を敬う気持ちと、仏教の教えは異なるものである。
どこで刷り込まれた?
いつから刷り込まれた?
「真」は自分の心で見つけた答えのみ。
そして最後に、一言。
それでも、私は母と同じように日本の寺社仏閣が好きである。
心が落ち着く場所である。