死生学【2】 | コリンのブログ

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「膵腺房細胞癌」でこのブログにたどりついた方がいましたら、2014年5月20日以降の「お母さん」というテーマで書いてます。

死生学 【2】 死と他界が照らす生
          熊野純彦・下田正弘 (編) 東京大学出版会

死生学の2巻を読みました。1巻より難しいです。
その中で興味を引いた事を本文から引用します。
(自分自身のためのブログ内容です。)

4章 生まれて愛して死んでゆく、なんの不服があろうか

 筆者(宇都宮輝夫氏)が二十数年前に死生学の授業を始めた時、学生たちに生の意義を考えさせるため、授業の冒頭で「ざるで水を汲むか」と問いかけるのを常とした。学生たちのほとんどは、「それは成果が残らない空しい行為であるからしない」と答えた。すかさず私は「では、最終的にはすべてを失う死に帰着する生に、どんな意味があるのか」と問いかけた。(P68)

→ この問いがまさにコリンの問いだと思いました。輝かしい発見や素晴らしい出会いは、人間の人生を豊かにしてくれる。ただ、最後はみな死んでゆくのです。功績は残るかもしれない、思い出は残るかもしれない。でも本人はもう存在しない。そこに、コリン本人はどんな意味を見出すのだろうか。

6章 時の流れを超えた場に向かって

 死に直面している人にとっての<希望>の可能性について。
例えば、患者が「最後まで希望を持つことができる」ためにはどうしたらよいか。
重篤な疾患であることが知らされる→だんだん状態が悪くなることを知り、有効な対処法はないことも知る→実際に、自分の身体がだんだん悪くなり、できることがどんどん減っていく→死を間近に感じるようになる→そういう時にいったいどのような希望があり得るというのか。(P115)

(略)ここに、「死は終わりではない、その先がある」といった考え方が登場する。
死ぬことは、生きて残された人々から見た語りになる。それは人々の前から当人が<居なくなる>ことであり(=現世内不在化)、したがって<別れ>(交流の断絶)である。
誰かの死を、その者がいなくなってしまったこととして捉えることは、遺された者たちと死んだ者との関係において、その関係の喪失として捉えることに他ならない。
死という人間関係の喪失は、遺された者にとって不条理なことであり、「なぜだ?」という問いを喚起せずにはいない。どうしていなくなってしまい、別れることになってしまったのか?-あの世へと逝ってしまったからだ。こうして他界移住は、親しい者の死という経験に際して、人々が発する「なぜだ?」に応えて提出された理由である。(P118)

居るだけの生を肯定すること(P127)
高齢により、あるいは疾患が進行することにより死が近づいてくると、通常できることがだんだんなくなっていく。「自分の身の周りのこともできなくなって、人さまの世話になるようじゃ、もう私なんか生きていても仕方ないねぇ」-このような発言がよく聞かれる。その人は今ここに≪居る≫ことはできる。また≪居る≫ことができるように環境を整えることが、周囲の者たちの務めとなる。先の発言に続いて、「でも、私はまだここに居ていいんだねぇ」と言えるように、つまり、ここに「居られる」ように、「居心地」を良くすることが肝要だろう。それには、その人の≪居る≫を肯定する仲間が居なければならない。「あなたは居ていいのだ、否、居て欲しい」と語り掛け、語り合う、ともに生きる人々の繋がりの中で、人は居所を見出すことができる。

→ そう、コリンは母に居て欲しい。ただそこに居てくれるだけでいい。それがコリンの望み。悲しみは自分の中で何とか処理しよう。母やコリンの大切な人が最後まで幸せでいてくれるなら、それでいい。

11章 死生の位相転換

宗教は、人が「意味」を求める存在であることから生まれるのであり、(略)人間にとって、「意味」がどれだけ深い役割を果たしているかは、たとえば、意味のない暮らしに人が耐えられないことからも了解できることであろう。
一般に、どんなに苦しい状況でも、そこに生きる「意味」が見いだせる以上は、人は生きてゆくことができる。
大切なことは、その「意味」がけっして科学的に証明される必要はないという点だ。「納得」できればよいのである。ましてや、人はどこから生まれてきてどこへ去ってゆくのか、といった人間存在の根本的な不可解性に与えられる「意味」は、科学的証明や客観的実証性を超えている。「意味」への、いわば渇きに似た欲求を満たしてくれればよいのであり、人が求めているのは心底「納得」できる「物語」なのである。(P237)

→ 本を読むということ。
これはコリンにとって大いに役立ち、心の安定をもたらすものである。様々な情報、いろいろな考え方を知ることにより、不安な気持ちを拭い去ることができる。その情報を脳に押しこみ、さらには友人やブログを通して患者本人の、また家族としての「声」を聴かせて頂くことにより、自分の道が見えてくる気がする。迷い・悩み・躊躇うことは多々あるけれど、それこそが生きる事と思えるようになる。それがコリンの納得できる「物語」なのかもしれない。



死生学【1】