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ありがとうって素晴らしい言葉で言った方も言われた方も気持ちのいいものだと思う。

が、最近濫用が目立つ。

この前テレビで、上原が大リーグで優勝したというニュースの中、日本の街頭インタビューのシーンで、

OLだかなんだかの女性二人が「上原選手ありがとうございます」って言ってたんだけど…おかしくね?

すごいな~とかカッコイイとかおめでとうございます、ならすんなり頷けるんだけどありがとうって…?

あのOLが上原のチームの株主で利ザヤが半端ないのかな?

それとも上原が前日に「君のために投げるよ」って言ってたのかな?

上原は何も貴方のために頑張ったわけじゃないんだよ、少し傲慢なんじゃないの。

なんでもかんでもありがとうって言えばいいってもんじゃない。

・ひどい言い方をされたのだから言い返せばよかった。嫌いな相手に誘われたのに断れなかった。

→あるあるだけど、目新しい話ではない。感情を第一に優先しろということを強調している。

そしてその邪魔になるのが「思考」だそうだ。

感情に蓋をして思考の楼閣の上から行動しても先が続かない→わかっていてもできない状態


2章終わり。


・私←他者よりも(私→)他者の能動的イメージ

・感情といえば喜怒哀楽。私は喜や哀や楽はすぐ表に出る方だ。しかし怒は出ていないと思う。昔から、怒はネガティブな感情だし、空気を悪くしたくないし、すぐ切れる奴だと思われたくないしということで抑えてきた。下手をすれば笑顔にすり替えている時もあった。なんていう自分への裏切りだろう。怒だって立派な感情のひとつだ。ブラフマンのように「怒りを見せて」いこう。


・感情に蓋をしないで

→自分では蓋をしているとは思っていないけど、実はしているのか?わからない。

けど、なんでも表に出してたらキリがないだろ、そこん所読み終わる頃にはスッキリするのかな。


・働きたくないという自分の感情を抑えて資格取得の勉強を続ける男性の例

→おいおい卑近な例が登場したぞ。問題は「平気な振り」をしていることだそうだ。ここでも感情・欲求・意志のプロセスが重要視されている。私は働きたくないとは思っていない。正確には自分にプライドが持てないまま働きたくない、だ。しかしそのプライドというのは他人から賞賛されて保たれる類のものであって自分が本当にその仕事をしたいのかと言われても…私も感情を殺しているのだろうか。


・働きたくないという感情を正直に話すことで周囲のプレッシャーを軽減できる

→なんだ結局「ハッキリ言え」ってことか。それぐらいはできるよ。でもできてないから悩んでいるのか。

この辺女性の方が強かったりすると思う。


今年のテーマは「ナメンナヨ」である。

まぁもうちょっとずうずうしく生きよう、自己中で行こうという意味を込めている。

前回の内なる批判者よりもう少し分かり易い本を見つけたのでそれを読み進めながら、

楽に自由に生きる方法を模索していきたいと思う。


感情>意思…感情は意思の中にある。感情は意思の敵だと思っていた私には目から鱗。


例)凹んでいる(感情)→話したくない(欲求)→話さない(意思)という自然な流れ。

例)凹んでいる(感情)→話したくない(欲求)→話したくないけど変な奴と思われないか(思考)→けど話したくない(欲求)→…という無限ループ。


けどなんでもかんでも欲求のままにいたら社会生活が成り立たないと思うが、とりあえずそれは置いておく。


自分中心で生きると聞いたとたんに我儘、エゴイストという連想が働く私はちょっとしたアレルギー患者なのかもしれない。ホンダが見たら笑うだろう。彼は自分の発言が周りに変に思われるかもなどと余計な思考を挟んだりしないのだろう。

その本の中である人が、
自信を持って堂々としていると偉そうと見られないか、かと言ってびくびくして相手の意見ばかり聞いているのも嫌だという板挟み状態だと言っていた。
私もそうなのだが、そういう時は両者の中間くらいのバランスをとって生きていけばいいと思っていた。
しかし、内なる批判者(常に自分の行動にケチを付けるもう一人の自分)という存在を仮定すると、そのバランスを取るという考え方自体が自己よりも他人を優先した発想ではないかと思い始めた。
本当に好きなことをやっている人が、自分がやりたいけど他人に疎まれないギリギリのラインなど気にして行動しているだろうか?していないだろう。
いやでも待て、外で裸で走り回りたいと言ったって法律を気にしない訳にはいかないしな、良くわからなくなってきた。