連日書くのは随分久しぶりです。



 仕事がやっと一息つけて、余裕ができホッとしているところです。締切のある仕事に追われると、時間に追われてしまうので気楽なことはできなくなってしまいます。


 昨日の続きですが、人間(ヒト)と人格(人)を余りにも単純に区別してしまって、人でないので物扱いする形で先天異常のある胎児を中絶したり、無脳症など重度の障害のある新生児を治療せず安楽死させたり、脳死の人を死者とみなし身体は完全に生きているのに臓器を取り出したりすることが、ためらいなく行われることに対しては、多くの人が違和感を抱くであろうと思われます。


 その違和感が生じる理由は、あまりにも単純に人と人でないものとに区別してしまっていることに対する拒絶反応や抵抗感があるからであろうと考えられます。


 それでは、その拒絶反応や抵抗感はなぜ生じるのかをさらに考えていきたいと思います。


 それは、簡単に言って、人間と人格をそのように単純に区別して上述のような措置を行うことが許されるという考え方や立場が、やはり間違っているからであると思います。


 結論を先に言ってしまいますと、人間と人格を区別して人でないものは死なせても道徳的に許される、間違っていないという考えは、論点先取のトートロジーの誤謬を犯しているということです。


 簡単な例を出して言い換えますと、「もし映画のチケットを持っていない人がいるなら、その人を映画館に入場させてはならないということは、正しい。」と言っているのと同じことに過ぎないということであります。この言明は、一見すると、映画のチケットを持たない人を映画館に入場させないことが正しいのかどうかの真偽を問う形を採っていますが、実はチケットを持っていない人という前提をそのまま、ある人に映画を見せないのが正しいという結論で繰り返しているだけの、偽になりようのない同語反復を行っているだけの主張に過ぎません。


 そのことは、上の言明を「もし映画のチケットを持っていない人がいるなら、その人は映画のチケットを持っていない(ので映画館に入場させてはならない)人であるということは、正しい。」と言い換えてもまったく同じ意味ですので、一目瞭然であると思います。映画のチケットを持っていない人は、映画のチケットを持っていない人であると、同じ意味内容を繰り返しているだけであります。


 同じことが、人間と人格とを区別して外見上人間(ヒト)に過ぎない胎児や新生児、脳死者は死なせてもよいという言明に関して為されていると言えます。人(人格)でない胎児や新生児、脳死者は人でない(ので死なせてもよい)ものである、人でない者は、人でない者であると同語反復しているだけであります。


 ですから、先の例でいいますと、映画のチケットを持っていない人がいた場合、実施する措置として実際に「正しい」のは、映画館に入場させないということではなく、映画のチケットを買ってきてもらうというのが当然のことであります。映画館にやってきて映画を見たいと思っているのですから、チケットを持っていない場合はチケットの販売所を教えてあげて買ってくるまで待ってあげればよいだけのことであります。


 このように、人間と人格とを区別して、人でない者は人でないからそのような扱いをしてよいという主張は、基本的な論理の誤謬を犯しているということになります。



 ですが、それよりもなお問題があるのは、今まで見てきた人間という存在をどう捉えるかの捉え方、その人間観ではないかと思われます。



 前回の続きを書きたいと思います。



 前回は、人間と人格を区別する議論の具体的な例として挙げられる先天異常を理由にした人工妊娠中絶について、生命の尊厳を無視した行為であり、どうしても違和感が感じられるだろうということを書きました。


 恐らく多くの人が抱くであろうこの違和感がなぜ生じるのか、その理由について考えてみたいと思います。


 道徳的な人格と生物学的な人間を区別してなされるこの議論は、人格の規定を自己意識ないし理性性という、人間と動物を区別する本質的な特徴の有無によって人(人格)かそうでないかを区別しますので、胎児を人でないので死なせてしまっても良いとするだけではありません。他の動物と区別される人間の本質を、自覚的に考え判断する能力である自己意識とみなして人かどうかを区別する場合、胎児は自己意識や理性的な思考能力はないであろうと考えられますが、人(のこの規定)からは脳死者や、生後1週間に満たない産まれたばかりの赤ちゃんも除外されることになります。


 脳死と診断された人は、脳の機能が壊滅してもとに戻らない状態になってしまっている人のことですので、思考能力や自己意識はもうなくなってしまって人としての活動をまったくできないと考えられます。まったく同様ということではありませんが、生れたばかりの新生児も大人(人格)とは違い考える働きや自己意識はまだまったくないとみなされます。


 ですから、昨年の7月に臓器移植法の改正法が成立して話題になったように、脳死は「人の死」とされて、脳死者からの臓器移植が可能ということになります。そして、胎児の中絶だけでなく、自己意識がないと考えられる生後間もない新生児までもが、重度の障害があって延命措置をしても助からないと考えられる場合、治療しないでそのまま安楽死させても構わないと考えられてしまうことになります。


 脳死したとみなされた人も、生命維持装置をつけて呼吸をし心臓が動いて身体は以前と同じように生きていますので、外見は今までどおりのその人と変わりありませんし、胎児や生れたばかりの新生児も、まったく未熟で未発達であっても人間の遺伝子を持ちこれから大人に成長していく素質を持っていますから、脳死者も新生児も生物学上は人間であることに変わりありません。


 ところが、人(人格)であるかどうかというと、人間と人格を区別する立場では、人は自己意識を持たなければ人とはいえないと考えられるので、脳死者と胎児、新生児は人ではないということになってしまいます。


 このような考えに対しては、あまりにも単純に人かどうかを区別しているという印象を誰しも受けるところであります。


 外見上今までとまったく変わらないその人(自分の家族や親しい知人)を見て、脳死したからもう人でないと言われても、直ちにそうですかという訳にはいかないのは当然のことであります。まだ人らしき形をしているだけの胎児や外見上人の子らしいと思われる新生児であったとしても、それが人でないと言われれば抵抗を感じるのは当然であります。


 胎児はまだ人でないから中絶して死なせてもいいと言われても、胎児は人でないと簡単に納得できたり、受け入れるわけにはいきませんから、中絶に対して違和感を持つのは無理からぬことであります。



 それでは、人であるなしの、人間(ヒト)と人格(人)とのその単純な区別の納得のいかなさ、抵抗感は、どこからくるのだろうかということも、さらに遡って考える必要があるのではないでしょうか。



 ひと休止で、時間に余裕ができたので、前回の続きを書きたいと思います。


 人間と人格との違いという問題は、非常に抽象的な議論ですので、この議論がなされる実際上の具体的な問題で考えたいと思います。


 このような一見どうでもいいようなことが問題にされるのは、何を持って人間とするのか、人間とは何かという大テーマと関係があります。その各論として、さらに人はいつから人となるのか、反対にどうなれば人間でなくなるのか、という問題になります。


 もっと具体的にいうと、なぜ胎児の人工妊娠中絶がいけないのか、という問題になります。人工妊娠中絶は、様々な理由で為されるでしょうが、最初の人間と人格という問題からすると、先天異常のある胎児の中絶の問題です。先天異常があれば、障害を持ってうまれることになりますから、健常な子どもより育てるのが非常に大変であると予想され育てる自信がないと考えられ、多くの親が中絶すると言われています。


 しかしながら、先天異常がなければもちろんそのような措置が為されることはなく、生命の尊厳ということからすれば大きな問題であることは間違いありません。


 そのときに、中絶が許されるとされる論拠が、胎児の段階ではまだ人(人格)ではないので殺人にはならないという考え方であります。これから新生児として出生し、幼児の段階からすくすく成長し、大人へと人間といわれる存在者へと育っていくその出発点にある存在者が胎児です。ですから、これから育とうとする胎児を死なせてしまうというのは、どんな理由があるにせよ冷酷で、冷淡、非道であるというように考えられるのは、人間感情からすれば当然のことであると思われます。


 かといって、実際に育てる当の親が育てる気がなかったり、自信がなかったりする場合、強制的に育てさせるということに対して、違和感が感じられるというのも実際の感情であり、胎児の生命の尊厳と家族生活という現実との間でジレンマが生じるということになります。


 ですから、そのような現実的な生命に関する倫理の問題として考えられることになります。


 その場合、理論的な問題としては、胎児が人(人格)でなければ、殺人にはならないので中絶は許されるという主張がなされますので、それでは一体人とは何をもって人ということができるのかという問題になってきます。


 先天異常があれば障害を持って生れてくるので、育てることはできない、育てる自信がないというのは、ある意味で率直な感情であると思います。そのような感情が生じるような障害を持つ人を充分に受け入れない、障がい者の社会参加が充分にできない実際の社会の現状があり、それが反映された正常ともいえる観念であると思います。


 先天的に障害を持つ人だけでなく、事故や病気で障害を持つ人もおられますので、中絶をしてしまおうという発想が生じないような、ノーマライゼーションの浸透した社会を実現することは、是非とも取り組まなければならない、喫緊の課題であります。


 そういった実際上の重要な問題はありますが、その問題とも大いに関係する、中絶をするのは宿ったばかりの尊い命を絶つことであり、決して認められることではないだろうという率直な違和感がなぜ生じるのかという問題が、より根本的な問題としてあるのではないでしょか。