この問題についてもう少し書きたいと思います。
この3月に大震災を経験し、これまでの我々の生活の仕方、自然との関わり方を改めて考え直す必要があるのではないかということで、前回思うところを書き留めてみました。
見直してみる必要のある最も大きな点は、自然と我々人間との関係のあり方、自然と人間との共同性についてではないかというのが、前回の記述の趣旨でした。具体的には、人間が自然を思うままに完全にコントロールできるという思い上がりによって、余りにもリスクの高い原子力の利用に手を出し平然としていた態度を改めるべきではないかというものです。
ここで我々はさらに、我々人間が特に近代以降科学技術の力によって、自然を開発し利用して築き上げてきた文化・文明の意味について思い起こしてみる必要があるのではないでしょうか。我々が原子力などを利用することによって営んでいる文化社会がいかなるものであり、それがいかなる意味を持つものであるのかということです。
一言でごく簡単に言ってしまえば、我々の文明社会は我々人間の精神の分身であり、人間精神そのものの具現であります。人間は、元々あった自然に一方的に順応・適応するのでなく、科学技術の力を駆使して生活し易いように自然を作り変えることによって、自然環境を自分たちの生活環境へと開発・改善してきました。これはまさしく人間精神の英知の結晶であり、人間精神を科学技術という形式を通じて客観化した成果であります。便利に使える諸々の家電製品にせよ、家具・調度類、日常の必需品から自家用車や大規模な各種交通機関に至るまで、人間精神がもともとあった自然から自らの能力を結集させて作り上げてきた、客観的な精神と言いうるものです。
つまり、我々が文明社会と呼ぶものは、手付かずにそれ自身として在った自然を自分たちの生活に都合よいように作り変えた、第二の自然に他なりません。その意味では、我々の文明社会、特に生活環境はすべて自然を基礎とし、自然という基底的土台があって初めて成立するものであります。我々の生活は、自然における土壌や土地、大気や河川などの無機的な自然物の基礎の上に、家屋を建てそこに家具・家電などの自然を作り変えた生活用品を持ち込んで初めて成り立つのであって、自然抜きに営みうることは、全くもって不可能な事柄であることは言うまでもないことであります。
そのような余りにも自明な事柄を、自然あっての我々人間の生活であり、自然の恩恵のもとに人間生活が可能であるという明々白々な事実を忘れ、むしろ逆に人間が自然を支配し従属させていると勘違いしてしまっているのが、現代社会の悲しき人間たちの実情ではないでしょうか。
まずは、この根本的な事実関係、自然と人間との共同的関係の事実を思い出すことから始めなければならないのではないでしょうか。