いま現在、日本が未曾有の危機に直面し、将来への道筋を模索するなかで、微力ながら何か力になれることはないかと思い、思考を巡らせてみることにします。



 この危機に直面した今ここで、何を最も反省し、何を最も教訓として今後の様々な取り組みに反映させていかなければならないのか。私たちが、しっかりとじっくりと考えなければならないのは、このことではないでしょうか。何をどのように間違えてしまったために、今回のような大きな被害を受け多くの犠牲者を出すことになってしまったのか。この反省と思索なくして,犠牲になられた方々に対して、真の弔いはないのではないでしょうか。


 今最も問題となっているのは、緊急の要件としてはエネルギー問題であり、さらに根本的には自然環境との共生の仕方、自然と私たち人間との共同性の問題だと思います。


 人間と自然との関わり方、要するに自然の開発の問題で、多くの被害者を出したのは今回に限らず、四大公害病などを、自然利用に対する人間の思惑、欲望が原因で引き起こしてしまっています。私たち人間が生活をしてゆくためには、自然を開発し利用していくことはもはや避けることはできず、本能のみによって自然環境に順応し自然に対して全く従属して生きていくということは、人間の持つ精神的文化的な特性からして、ほとんど全く不可能であることは言うまでもありません。


 しかしながら、今回の大震災と原発事故でも明らかなように、自然の力は人間の知能などの諸能力や一切の思惑を超えて偉大であり、自然はその力によって容赦なく人間に襲い掛かり、人間に対してその関係の歪みや誤りのしっぺ返しを行使してきます。確かに原子力は,利用しうる大いなるエネルギーを内蔵し、実際にそれを発見した人間に大きな恩恵ももたらしてきたのであります。けれども同時に、非常に危険な放射能汚染をもたらすことは最初から承知されていたものの、そのリスクを上手くコントロールしうると信じ込み、実際にそのリスクを押さえ込みえたと思い込んで開発利用し続けてきたのであります。


 そして、いったん負の要因が現実になり、自然が偉大なその容赦ない力を発揮すれば、もはや放射能汚染というその脅威を人間は払い除け、それに対抗する力はいま現在全く持ち合わせていません。人間の科学技術力がいくら進歩したからといって、所詮はその程度の微力なものでしかないのであります。


 この圧倒的で歴然とした自然との力の差を、今回の出来事によって改めて思い知らしめられ、思い出さされたということではないでしょうか。地球環境破壊・汚染にせよ、いったん取り返しがつかない状態にしてしまえば、人間にはどうすることもできない問題になってしまいます。それほど人間は微力であり、自然のなかで自然と共に生きていくしかないという、至極当たり前の大前提を今はっきりと思い起こすべきなのではないでしょうか。



 決して卑下する必要はないにせよ、自分の能力、自分自身のことをよく知り、自覚することは、人間が善く生きるうえでの第一の基本事項であります。


 今日は、思想・良心の自由について書いてみたいと思います。



 具体的に述べますと、一昨日最高裁で判決が出されたとされる、学校式典での君が代斉唱の際の起立・斉唱義務についてであります。


 最高裁の判断の趣旨は、学校行事としての入学式・卒業式などの式典でその式の慣例的な式次第の一つとして行う君が代斉唱を一定の秩序を持って正式に挙行するために出された教員に対する職務命令には、合理性と妥当性があり、起立・斉唱義務を拒否する思想・良心の自由を侵害するものではないとするものであります。


 言うまでもなく憲法で規定されている思想・良心の自由や表現の自由、職業選択の自由など様々な自由権は、日本国憲法の掲げる人権規定として、生存権に代表される社会権と並んで、諸々の法律・制度において諸個人に対してまず尊重されなければならない最も基本的な人権であります。一方においては、あらゆる生活場面でこの個人に対する基本的人権は、保障されなければならないという考え方があると思われます。


 けれども、そもそもこの自由権は、どのような種類の権利なのでありましょうか。それは、個人のあらゆる生活場面において個人の人間としてのあらゆる尊厳を守る必要があるということが,まず第一の基本的な趣旨であると思われます。かつての日本が行った戦争をどのように評価し、どのような教訓や歴史的事実として理解するのかは、個人的な思想として持つ限り、その個人の判断や良識、世界観や価値観にゆだねられるあくまで個人の主観性・個別的意識に属する事柄であり、個人的な歴史意識・認識の問題であります。そして、その歴史認識に基づいて日の丸・君が代に対してどのような評価・見解を持つかも、同様に個人の意識・思想の問題です。これは、国家や地方自治体などの公的権力はもちろん、学校・会社などの小規模な社会組織や家族のような私的な社会集団であっても決してその意識・認識について強制や拘束を許されない、個人の心の問題であります。


 このような個人の内面の心の問題は、決していかなる他者によっても強制・強要されてはならないことは当然であります。とはいえ、逆に言えば、その個人の心の問題が公の職務においても許容されるかというと、それはまた状況が異なるのではないでしょうか。学校組織の教育方針、教育理念に対してどのような個人的評価・見解を持つにせよ、その組織に共通の規則・方針に認定された以上(その決定に至る過程において個人的見解を表明し、賛意を募ることは当然行われてしかるべきであります。)、共通の規則・方針には組織への帰属員としては服務の必要があるのではないかと思います。そのような共同の職務遂行において個人的な見解・理念を固持し必要な遂行を為さないのは、非常に独断的な行動ではないかと思われます。


 個人が組織・社会の中でいかに自分自身の尊厳を守れるか。個人的な見解・理念が他者関係においてどこまで表明・許容可能であるのか。個人と社会との関係の問題として、難しい問題であると思います。


 個人の主観性・特殊性と国家共同体の客観性・普遍性という相反する特性を持つもの同士が、媒介され統一されるということがもし実際に実現するとすれば、それは、個人の特殊的な利益・幸福が個人によって十分に享受されると同時に、国家の行使すべき公共的な使命や目指すべき普遍的な目的もが実現するような極めて理想的な社会状態が現実のものになるのではないかと思います。



 そのようなことは、果たして可能でありましょうか。そのために、個人の側からしてまず第一に基本的に必要になるのは、一言でいって個人の社会の公共的な問題へと向かう高い意識、ないし国家の目指す目的へできる限り参加しようとする政治的な意識ではないかと思います。個人は、もちろん家族の一員、市民の一人として家族と自らのために働き、自分たちの利益・幸福を当然追求する側面があります。それが個人の主観的・特殊的な性質であり、そのように活動して初めて個人自身の自由と諸権利とを行使でき、それは現代の自由主義的・民主主義的な社会での大前提であることは、以前に述べました通りであります。個人が公共的な問題への意識や政治的意識を高く持つということは、まず第一に決して国家や共同体へ自らを犠牲にして滅私奉公するということであってならないのは当然のことであります。


 とはいえ、自らだけの利益・幸福を追求することだけが個人の目指す利益・幸福のすべてであるということになるのでありましょうか。今回、大震災の危難に遭遇して日本人のみならず世界の多くの人々が他人事とは思わず、自らの大事な問題として様々の手段で多くの援助・支援の手を差し伸べたことは、この問題を考える際にも大きな手掛かりになるのではないでしょうか。そのような多様な協力的・共感的な取り組みがなされたのは、自分たちが社会の一員であり、身近であったり疎遠であったりする多くの人たちの協力や支えがあって初めて、自分たちの社会や生活が成り立っているということ、あるいは他者の幸福をも願わずには居られないという率直な感情を、明確に自覚しての活動ということなのではないでしょうか。


 そのように、少し踏み込んで考えれば当然と思われる、自らの社会的存在者、社会内存在者としての立場を多少なりとも強く意識することによって、公共的な問題や政治的な事柄への関心は喚起されることになるのではないでしょうか。そのような自覚が若干でもなされ、心が動き関心が持てたことから公共的・社会的問題にも取り組むことは可能ではないかと思います。


 そして、そのような個人の自覚・意識ができるだけ多く結集することになるならば、上述の理想的な社会の実現ということに多少なりとも近づくということは無きにしも非ずということになるのだと思います。



 そのような社会の来たらんことを。