続きを書きたいと思います。



 現代社会において、個人の自由や様々な権利が尊重され、個人の意志や意向が社会の中に反映され、さらには社会の原動力になるべく中心的に位置づけられる必要があるということは、自由主義的、民主主義的な社会形態として、大前提になると思われます。けれども、この個人の意志・意向がいかに社会・共同体に反映され、中心的に位置づけられることになるのか、または逆に言えば、社会・共同体が諸個人の意志そのものとしていかに存立しうるのかということは、個人の意志・意向の特性が主観的かつ特殊的であるということを考えたときに、大いなる問題となります。というのも、社会・共同体は、全体的なものであり、全体社会である国家は個人とは疎遠で乖離した客観的で普遍的な存在であるという対極の特性を持つと思われるからであります。


 とはいえ、諸個人の自由・諸権利が保障されるのは、基本的に国家においてであり、その意味では個人と全体社会・国家との関係をいかに考え、両者をいかに連関づけるかが、個人の生き方に直接関係し、社会の在り方そのものを問うことであると思われます。


 大震災という大きな困難に直面し、それをこれからいかにして乗り越え、復興していくかという日本の現状にあって、個人・国民の利益・幸福と全体社会・国家の目的・使命とがいかに関係しているのか、そして両者をいかに関係させるのが善いのかという根本的な問題を改めて考えてみる必要があるのではないかと思われます。


 その際の問題の焦点は、個人の特殊的な利益・幸福と国家の普遍的・公共的な使命・目的とがいかに媒介され、統一されうるのかという点にあるのではないかと考えられます。個人が自らの利益・幸福であると実感できることが、同時に国家の公共的な使命や目的にも適っているというような事態は果たして可能となりうるのでしょうか。(続く)

 前回、個人主義と共同体主義とについて、改めて根本的に考え直してみる必要があるのではないかということを書きました。



 基本的な思考のスタンスは、すでに述べましたように、どちらかに優劣をつけるために二者択一的に考えるというよりも、それぞれの問題点を再考・検討しながらより十全な私たちの生き方、社会の在り方を模索しようというものです。


 近代的な思考の仕方からすると、個人の意志や意向、権利など個人の自由や生存についてまず第一に最大限尊重する必要があるということは、至極当然であり、人間や社会の問題を考えるにあたっては大前提になると言うことができます。いくら家族や近隣の人々、地域社会や国家など多重的な社会関係の中で生活することが個人にとって不可欠であるにせよ、それぞれの個人がやはりその社会や共同体の中で自分自身の意志や自由を尊重され,大切に扱われることがなければ、そのような社会や共同体は意味のないものになります。そして、そのように個人の意志や意向、考え方や生き方などがまず第一に尊重される必要があるという考え方は、基本的に自由主義の思想原理であると言うことができると思います。


 個人の意志、生命や財産などの基本財が保障され、言論・出版などの精神活動、政治参加や経済活動も自由に行える市民的な自由権の保障は、人間の生活保障という人権についてまず第一に掲げられ、実現が目指されてきたものであります。自由主義という近代的な理念が、個人の心の中や社会での様々な活動・在り方をまず最優先して人間や社会について考えようとする、人間にとって必要不可欠の思想であることは間違いないことです。


 とはいえ、基本的、原則的に重要で尊重される必要があるにせよ、この個人の意志や意向は、まさにその本性上その人それぞれであり、非常に特殊で主観的・恣意的なものであるということにもなります。そして、その個人の意志や意向は、基本的に自分本位であり、自己中心的に働く傾向があるという性質があるのではないでしょうか。ここ20、30年来環境問題が取り沙汰され、地球の温暖化が声高に訴えられてきているにもかかわらず、個人の、自分(たち)自身の生活をまず第一に考え、生活水準を調整することにはなんら関心を示さず、むしろ自分(たち)の生活だけは拘束されず欲望の赴くままに生活することになんら疑問やためらいを持たない人々も、少なからずというよりむしろ非常に多く存在しているというのが実際なのではないでしょうか。


 暮らしぶりだけでなく、政治行動においても自分の実際的な個人的利益を最優先して選挙投票を行ったり、ダムや発電所建設などの地域開発への賛否の意志表示などにおいても公共的・共同的な、あるいは普遍的な視点・利益よりも個人的私的な視点・利益を優先させて意志決定をするということは少なくないのではないでしょうか。



 要するに、自由主義を基調とし非常に尊重されるべき個人主義ではありますが、決して無条件で受け入れられる考え方ではなく、少なくとも注視し疑問視される必要のある問題点も抱えた思想であるということは、大いに念頭に置いておいた方がよいと思われます。

(続く)

 前回の続きを書きたいと思います。



 大震災という大きな事件が起こってしまい、この機会に改めて私たちの暮らし方、社会のあり方について考え直してみる必要があるのではないかということを、書きました。近代社会になって、大きく変わったことの一つに個人が尊重されるということがあります。個人は,それぞれがその自由意志が尊重され,平等に扱われ、生命・財産などの基本的な権利が保障される必要があると、今では取り立てて訴えることもないほど当たり前に考えられるようになったことです。人間は、社会や国家という大きな集団で生活することが前提であるにせよ、まず第一にはそれぞれの個人が大切に扱われなければならないという重要な考え方です。


 とはいえ、どの個人も、家族なり近隣の人々、地域社会や職場などのさらに広がった社会の人々と共に生活し、誰一人として周囲の人たちとの大なり小なりの社会的関係を抜きにして生きていくことはできません。今回のような大事件が起こったときには特に、周囲の人たちとの助け・助けられる関係があってこそ、自分自身も共に生活を為しえているということが改めて痛感されるのではないでしょうか。私自身は、震災に遭わず無事に生活しえている中で、困難な生活を強いられている被災者の方々や、その方々に直接援助の手を差し延べておられる人たちを思うにつけ、ひしひしと感じられる次第であります。


 ですから、いくら個人の尊重が大切であるにせよ、個人だけでは無力であり共同体という人間同士共に協力し合い生活する場が不可欠であるということは、これもまた非常に明らかなように思われます。けれども、往々にして、個人の尊重さえしていればなんら問題ない、いや共同体・社会を最優先すべきである、という一方的・一面的な考え方が採られてしまいがちであるというのが、実情ではないでしょうか。


 実際問題としては、どちらを最優先に考えるのかということで、優先順位を付けることが求められる場合があり、イデオロギーないし方法論的原理として対立的に捉えられ、争われることも多いように思われます。


 確かに、エネルギー問題一つをとっても、今回の原発事故のような事態になれば近隣の住民の人たち個々人の生活が避難を余儀なくされ成り立たなくなるので、原発は即刻操業停止にすべきであるという考え方が一つにはあるでしょう。他方、現状からすれば、原子力抜きにして電力需要をまかなえるべくもなく社会政策的に見て原発の操業も止むを得ないであろうとする考え方もあると思います。


 では、どちらかを優先させるのは不可避であるのか、また、最終的にどちらかが優先される必要があるのか、さらにはそもそも個人主義ないし共同体主義として対立的に考えねばならないという事柄自体が有意味であるのかどうか、それらをひっくるめて改めて考えてみる必要があるのではないでしょうか。

(続く)