暫く書いていない間に、日本が大変なことになってしまいました。

 東日本大震災で亡くなられた方には心よりご冥福をお祈り申し上げますと共に、被災された方々には心よりお見舞い申し上げます。



 3月11日に、夜のテレビの放映で初めて信じられない悲惨な映像を目にして、ただただ悲痛な思いに耐えるしかなかったというのが、正直なところであります。


 その後は、新聞、テレビなどの情報を心を痛めつつ、追いかけ続ける毎日であったのは、日本のみならず、世界の他の人々と同じであったと思います。


 特に東北地方の余りにも広範囲の被災地のために、またもはや津波に襲われた同じ場所に仮設にせよ避難のための住宅を造るわけにもいかず、そのために土地が見つからず被災者の人たちの仮設住宅の建設も遅々として進んでいない歯がゆい状況のようです。さらに、原発での放射性物質の漏出の回避もなかなか捗らず、自然の脅威と人間の無力さを改めて繰り返し思い知らされる日々であります。


 そんな中でも、復興に向けて前に向かって進んで行こうという多くの人たちの取り組みも行われ、皆で頑張るしかなかろうという決意も湧き出つつあるところであります。


 ということで、改めて私たちの生き方、社会の在り方を今一度しっかり考え直して見る必要があるのではなかろうか、という思いを強く持たざるを得ません。この機会に,この問題を考えてみたいと思いますが、本題はまた日を改めて書くことにします。

(続く)

 久しぶりに書いて見ます。



 今日もまた、ふと思いついたテーマについてです。哲学的思考というのは、日常的な活動も含めて、あらゆる人間活動に非常に大切であろうということです。


 思考というのは、あらゆる人間がその本質的特性として持つ非常に大切なものであるということはほとんど論を待たないことで、承知されている事柄だと思います。今日何をどのようにするかという瑣末なことから、自分の人生や多くの人々に影響を及ぼす重大な決定に至るまで、思考を用いずに為されうるものは何もありません。何事かを、合理的に効果のあるものとして為そうとすれば、そこには感情だけではなく、考えて為すということが必ずなければならないでしょう。感情的になり過ぎて思考を置き忘れてしまった結果、言い過ぎがもとで喧嘩がこじれたり、相手の気分を害して関係が拙くなってしまったりすることは、多々あることであります。


 その意味で、物事をスムーズに滞りなくより上手く進めていくために考えるということは、日常的にほとんどそんな当たり前なことを意識するまでもないというくらいのレベルで、自明なことであります。


 そんな人間活動にとって空気と同じくらい必要不可欠な思考ということができますが、それを正しく行使しているかというと、また話は別なのではないでしょうか。余りに当たり前すぎて、その意味で普遍性を持つにもかかわらず、十分に意識されず、なおざりにされてしまっているものの代表格と言えるのではないでしょうか。


 ところで、色んな物事をより良く、より効果的に進めるために重要なことは何でありましょうか。それは、まず第一には現状分析ではないでしょうか。これから取り組もうとしていることが、何であり、それはどのような状況にあり、どのような問題があるのかということの、十全な理解が必要です。その事の孕む経緯であったり,歴史といった、現在の外面的な部分でない,過去をも含めた本質的な理解が必要です。現実的に存在するものについて、より十分に本質的に知ろうとすれば、今現在を生じさせた過去の原因なり原点なりをも時間軸を遡って理解しておく必要があるでしょう。


 そのようにして、その事柄の本質に関わる緻密な分析が、現状の把握としてまず第一に必要だと思われます。


 その次には何が重要かと考えますと、そのような緻密な分析を手掛かりに、実際にその事、その問題に対して何をするのかを決めなければならないでしょう。現実的な行動についての判断であります。現状の正しい認識のもとに、それではどうするかということを決めなければなりません。それには、今度は過去ではなく、未来が関わってくるのではないでしょうか。そのことを為した結果どうなるのか、周囲の人々や環境に対してどのような影響があるのか、その行為をなした後の状況を今度は十分にシュミレーションする必要があります。将来に目を馳せ、より良い将来を展望した上でそれを実現させるという明確なビジョンのもとに、実行に移す必要があるでしょう。一定の理念に基づいた上での判断であって初めて、より良い結果を将来させると言えます。


 緻密な分析に基づく、将来を見すえた理念的な展望に立った上での判断。なかなか言うは易し、行なうは難しといった事柄だと思いますが、人間が当たり前に行う思考を十分に働かすというのは、そうた易いことではないのではないかということにもなります。



 人間誰もが行う考えるという営み。哲学的に、根本的により十全に行うことは、なかなか至難なことであります。



 久々に書きたいと思います。



 テーマの内容は、前回と同じものです。ちょうど昨日、ノーベル平和賞の授与式が受賞者や代理人不在のまま行われた、その問題です。


 受賞者の中国の人権活動家の劉氏は、投獄をも恐れず中国本国に留まって活動を続ける数少ない活動家の方で、その強靭な精神力と真摯で不屈の活動力には敬意を表するより他ありません。


 そのような受賞のセレモニーが「政治的茶番劇」であり、内政干渉以外の何者でもないと公然と非難してみせる当局の強硬な主張は、民主的な国に平和裏に生活する私たちからすると唖然とせざるを得ないという感慨は、全く私に限ったことではないでありましょう。


 では、中国政府当局は、全く非人道的な極悪非道な行為を挙行しているだけなのでしょうか。かつては、社会主義は人間疎外や労働疎外などの非人間的な社会状況を打破する政治理念を掲げた政治思想として一躍世界史の中心に躍り出たのではなかったでしょうか。


 今でも、貧富の差は収まるどころか、比較的平穏な生活が維持できる日本でも格差は広がったままです。今現在でも、すべての人が平等に人間的疎外を受けることなく生活するということは、実現されるべき重要な理念であります。その理念を実現するためには、確固とした体制を必要とし、社会の一定の政治秩序を維持しなければならないというのは、自由主義社会の場合であっても同様の真実を含んでいるでしょう。


 しかし、その国家体制の中で自由な政治批判や言論の主張という基本的人権すら保障されていない現実。安定した人民の生活を維持するための国家体制の実現という理念と、人間として自由や生命・財産といった基本的な生活資源が保障されるべきであるという人権保障の理念との対立といえば、余りにも大雑把すぎるでありましょうか。


 国家体制対個人の生活・権利。両者は、それぞれ独立して存在しうるものではありません。人民あっての国家であり、国家あっての個人の生活であり、相関関係に在るそれぞれが自らだけの理念性を主張することは、それ自体が空虚な虚構であります。


 政府当局者は、国家が人民によって成り立っているというそのことを重々承知しているので、情報を統制し、人民に共通認識を与えないように苦慮しているのでしょう。とすれば、そのような統制はこのグローバル化した情報化社会の中で、倒壊することはほとんど時間の問題ではないでしょうか。旧ソ連・東欧諸国でかつてそうであったように。



 まずは、実際の現状を人々に伝え人々の考えに委ねることが何より必要ではないでしょうか。人民あっての国家なのですから。