大変久々の書き込みです。


 少々多忙な日々が続いていたので、気分的な余裕がなく書くことができませんでした。


 今年度の仕事にとりあえずの一段落がつき、長く書いていなかったことを思い出した次第です。


 今日は、人格と人間との違いについて書きたいと思います。人格は、英語ではパーソンと言われる概念なので、ごく簡単には人という言い方もできますので、人間とほとんど同じ意味で理解されたり、使われたりする場合もあります。けれども、両者の違いは微妙なものというよりは、似て非なるものに近いとも思われますので、その違いについて考えることにします。


 通常、人間が動物と区別される大きな特徴として、理性や自己意識を持ち、言語を用いた複雑なコミュニケーションが出来るということが挙げられます。人間は、心や精神と言われるものよって、様々なことを考え感じ、想像したり記憶したりできます。また、理性を働かせて善悪の判断をして、自分の行動についてコントロールし、他人に迷惑をかける反社会的な行為をしないようにしようと他の人々に対して配慮して行為しようとします。社会的動物であるといわれる人間が、家族や様々な形態の社会を作りその中で他の人々と共同で生活することができるのは、ひとえにこの心や精神ないし自己意識があって初めてのことであります。


 また、この心や精神は、自由を持ち、自分で自分の行動を選択決定して、自分の生活様式を様々に組み立て他者とは違う自己自身を形成していく自主性、主体性をもっています。行為の主体であることによって、他者とは異なる自己自身(個性、パーソナリティ)であることができると共に、自分の為した他者に対する行為については、その行為主体として責任を要求されることにもなります。


 人間が社会生活を営む上で、自分の生活状況に対して様々な要求を主張し、権利を求めるのは、他者と区別されるこの固有性、個人性によるところであります。それと同時に、社会の一員として今度は逆に果たすべき義務をも要求され、他者と協調的、協力的な態度も求められることになります。


 つまり、人間が人間として、社会の中で生活するその人間としての最も核心的な、本質的な部分をなすのが、自由な主体的な行為を生み出す心や精神であると言うことができます。


 その人間の本質を指す言葉が、人格であると考えられます。


 人間が人間である所以の人間として最も肝心な部分。人間が人間として、政治的、経済的、文化的などの多様な側面の社会生活をするときの一番中心であり、元のもの・本質であるのはひとえに、人間としての心と精神、もっと限定的に言えば自己意識ということになります。その人間の本質を捉えたときに言われる言葉が、人格というものです。


 ところで、人間というものを考えた場合、それは、精神性を持つ理性的存在者、思考する存在というだけでなく、身体を持つ感性的存在者でもあります。人間が身体的には二足歩行し、前足である手で器用な手仕事をすることができるのも、他の動物にはない特徴的なことであります。人間存在という場合、単に精神として存在することは不可能であり、感情や欲求という人間的な心の諸要素を受容するのは、身体を通じてであることは言を待ちません。人間が精神性と身体性を同時に併せ持って、理性的かつ感性的存在者として存在していることは、全く明らかであると思われます。


 ですから、人間という総体的で具体的な概念に対して、たとえその本質であるにせよ、精神性のみを特徴とする人格という概念は、非常に限定的で抽象的な概念であると言うことができます。


 人間と人格は、このような差異のある概念として、きちんと区別して理解される必要があると思うのであります。



 打算や利己主義といった事について、考えてみたいと思います。



 通常、人は自分の生活や体面のために出来るだけ利益が有ったり、有利である事を当然の事として考えます。これは、度が過ぎると自己中、自己中心主義として批判的に捉えられる事も一般的な事として了解されています。


 将来において出来るだけ自己利益が多くなるようにと合理的な計算をしてそれを行動に移したり、また自分が世の中の中心であるかのように物事を考え、実際にそうしようと行為するのは、人の世の常、人々の一般的な傾向としてある事は、多くの人によって認められる事ではないでしょうか。


 そうであっても、誰もが基本的な生活信条として少なくとも心に秘めているにも関われず、この信条は、表立っては歓迎されず、通常は批判的に見られてしまうのはなぜでしょうか。


 それは、この生活信条が余りにも人々にとって普遍的であり、誰もが持つ観念であるという事にあるのではないでしょうか。


 誰もが自然的傾向として、打算や利己主義的な思考を持つがゆえに、それを露骨に示したり、形振り構わず遣って退けるというのは、生活マナーとして心理的に敬遠され、警戒されるという事ではないでしょうか。誰もが自分の利益を考え、自己中心的に振舞うという事は、互いにとって他者は敵であるというのは単純な論理的帰結になります。そのように、打算や利己主義を露骨に示せば、自分はあなたの敵でありますと顔に書いて対面している様なものです。


 誰もが、多かれ少なかれ打算的である以上、そのような敵に対して好意的になったり、協力し合おうという気持ちにはならないのは当然の事情であります。そのような人は、やはりどうしても信用し難いし、信頼関係が築けるとは思い難い。


 社会関係の基本は、人間同士の関係ですからどうしてもその人物がどういう人間かという事が一番の関心事になるのは、事柄の道理であります。他者の事も配慮でき、他者と共に自分の幸福も考えようとする人でなければ、信用される事は難しいのではないでしょうか。



 という事で、社会心理学的な観点から、他者への配慮という事は非常に基本的な事柄と言えます。



 9月に入って、漸く所定の仕事を終えることが出来ました。



 レポートの最終的な提出者数は、調べていませんが、登録者は750名ぐらいいましたので700前後ぐらいと思われます。この絶対数が余りにも多かったために、例年の調子でぼちぼち遣り始めたのが後で大きな付けがきて、大変な目に遭ってしまいました。最後の1週間は、すでに締切を過ぎてしまっていましたので、1日中不眠不休で机に向わねばならず、決死の思いで漸く遣り終えたという感じです。


 事務の人にも、締切を何度も変更してもらって面倒を掛けてしまいました。


 結局、見始めてから丸々2週間を要したことになり、例年より遥かに数が多いことを殆ど考慮せずにいた見通しの甘さが招いた災いという事になります。9月に入ってからも、終えることは出来ませんでしたので、新学期が始まった所は止む無く休講にしてもらわねばならず、自分の不手際のために迷惑を掛けてしまって大変申し訳ないと反省している次第であります。


 このような切羽詰った仕事は、もう二度と遣りたくない、という思いで一杯です。元はと言えば、訳の分らない程の受講生の多さが原因で、それを招いた遠因は恐らく自分にあるのでしょうが、この異常な事態を恨まずには居られないと言うものです。


 

 という事で、漸く義務的仕事から解放されて、やっと自分の時間が持てる様になって一息入れている所であります。


 と言っても、これからが自分の勉強で本当に遣らないといけない本番という物でありますが。