このテーマについて、終わりにしようと思いつつ、ずるずると続けて書いてしまっています。もう1回だけ書きたいと思います。
前回、人間と人格とを区別して人の生死について論じる立場が、中絶に関しては親に障害をもつ子の養育を強制・強要せず、出産の選択の余地を残す結論を導き出しており、一概に非難することのできないところがあると書きました。
その意味では、障害をもつ子どもの養育についての選択の可能性を、言い換えれば子どもを養育するかどうかの選択の自由を親に与える主張になっているということになります。
この立場の議論は、英語圏で盛んになされたようですので、伝統的に自由主義的な思想に基づいてなされていると言うことができると思います。イギリスではJ.S.ミルを筆頭に経験論に基づいた、著名な自由主義者が数多く歴史に連なっていますので、その母国を取り巻く英語圏の諸国ではアメリカをはじめ非常に自由を尊重し、重視する風潮が強くあることは、多くの人が認めるところではないでしょうか。
ですから、人格概念を軸にしてなされたその主張は、先天異常を理由にした人工妊娠中絶を認めるという、非常に問題あるものであるにせよ、基本的にそのような選択の自由を親に保障するための議論としてなされていると思われます。
自由主義の立場の人たちは、個人はいかなる強制や拘束もなく行動の自由が確保される必要があるという、「消極的」な自由を最も尊重しようとしますので、その考えからすれば、子どもの養育に関して親が養育するかどうかを自分で選択し決めることができる自由をもてるかどうかは、非常に大きな関心事であると思われます。
ところが、この場合に問題が生じるのは、「消極的」な自由を堅持しようとする自由主義の立場は、他者に危害や悪影響を与えない限り、その行為に関するいかなる価値や目的に関わらず、万人の自由をいわば広く浅く認めるという形での自由の観念を主張しますので、特定の目的や価値(いまのテーマで言うと、先天異常を理由にした胎児の人工妊娠中絶の許容ということ。)を目指して自由を「積極的」に獲得しようとしたときにどうしても無理が出てくるということによります。
この自由主義の立場を理解するためには、対立する立場である合理主義の考え方を知る必要があるでしょう。合理主義の立場の人は、理性を信頼・尊重し、理性の示す法則に則って、あるいは従って行動することがより善い生き方につながると考えます。理性はすべての人間が持っている人間としての高次の能力であると考えられていますので、理性(の法則)に従った行為がすべての人にとって合理的で、人間にとっての最も素晴らしい行為の仕方、生き方へと導いてくれると信じられています。
それゆえ、合理主義の立場の人は、理性以外の自分たちの欲望や感情、本能などの人間をだらしなくさせる諸性質を理性の力によって支配・統制することが、正しい生き方であって、それは、理性をもつすべての人間が目指すべき方向であると考えることになります。
そのように、自らをより高い理想に近づける行為や生き方を目指すことこそが、「積極的」な自由であり、それこそがすべての人間にとっての真の自由であると考えられています。
ですから、現状では不十分な行動や生き方をしている場合であっても、理性を頼りに精進すれば目指すべき理想に近づけるので、そのようなより善い生き方を目指すこと(いまのテーマで言うと、障害をもっていても思うように社会参加のできるノーマライゼーションの充分に行き届いた社会の実現。)が、人間にとって望ましく、人間にとって本当の(「積極的」な)自由であるということになります。
いまのテーマの文脈で言いますと、親に自分の子どもを養育する選択の余地、自由をあたえるということは、確かにそのことの強制・強要をさせないという点で意義のあるところも認められますが、それを人間の本質規定である人格の概念を持ち出すことで正当化し、妥当な価値・目的であると積極的に主張しようとしたところに無理があるのではないでしょうか。
自由(自分の欲求・願望)と理想(自分も含めたすべての人の幸福・希望)のどちらも大切ではあります。自由(「消極的」なものであれ)を実現しようとするときに、やはり自由主義の立場の人が自ら原則的に要求する他人に危害・悪影響を与えないということは、基本的に大切な事柄であります。
この人間と人格との区別による願望の実現に関しては、それを要求することが不当な差別を生み出す恐れもあるがゆえに、大いなる問題があるということではないでしょうか。
(終わり)