今年も、例年通りお盆に小旅行をしてきました。



 今年は、城崎温泉、その後丹後半島を一周して天の橋立への旅行でした。


 例によって、早朝6時にH君が自宅近くまで車で拾いに着てくれて、出発とあいなりました。今年も楽珍な旅行で、いつもながらH君には感謝に堪えません。


 接近している台風の影響か、少々時雨れていましたが、暑さが凌げる感じで望むところでもありました。社会実験の行われている京都縦貫道にいつの間にか入り、早朝のことで渋滞することもまったくなく福知山へと向かいました。途中で、モーニングも取り、昼を出石で皿そばを食べる予定でのんびりした気分で旅情を味わった次第です。


 せっかくの休暇旅行ですから、せかせかせずに少ない目的地をゆったりと観て回るのが何よりだと今回改めて実感した思いであります。


 11時前に出石に着いて、それほど広くない町並みを散策しました。この辺りでは、唯一の城下町らしく城門跡に大きな時計台があって町並みのシンボルになっているのが印象的でした。さすがに皿そばで知れた町だけあって、町並み一体がそば屋さんだらけという感じで大いに町を特徴づけていました。


 今回は、携帯がバッテリー切れで交換しないまま持つだけ持っているという状態で(電話もメールもほとんどまったく使わないのが常態になっているので、このような有り様です)、写メも撮れずじまいで残念です。


 ということで、例年載せている写真もなく、文章のみにての内容で寂しいところであります。


 この町の出身という初代東大総長の加藤弘之の生家を覗いたあと、小高い場所にある城跡から町並みを一望したり、日も照り出して暑さを凌ぐために今年初めてのかき氷を食べたりして散策しました。


 時間も昼前のご飯どきとなり、皿そばのはしご開始。H君が調べていた一番そばが美味いという「永楽屋」という店から、入りました。後から入った喫茶店で聞いた話では、一食分で実入りをよくするために最初から五枚の皿そばと生卵、山芋のととろ汁のトッピングをセットにして840(850)円、1枚130(120)円で追加注文するという形で良い値にしていて、食したどの店もこの形式は統一されていました。 


 さすがに、ネットで評価されていただけあって、そば粉が洗練された白っぽい生地で非常に腰のある美味しいそばでした。最初は、ねぎもわさびも入れずにつゆだけに浸けて、二口目はねぎとわさびを入れて、その後山芋のとろろ汁を、最後に生卵をとだし汁の味を段々と加えていきながら、味わいました。五皿といっても一皿には一口には少し大目くらいずつしか盛ってありませんので、追加注文しないとお腹は膨れませんが、はしごをする予定ですから五皿を早々に食べて店を後にした次第です。


 それほど広くない町並みの少し外れたところに、一番古くからある老舗があるということで、二軒目はその店を見つけて入りました。あとで散策していた途中に、本店も見つかりましたが、外れにある支店で食べました。こちらは、そば色の濃い田舎そばという素朴な感じのものです。確か、江戸期に焼き物をしていた土地柄に家老の人だったと思いますが信州に縁のある家臣の人がいて、陶器とそばを一石二鳥で広めようとしたのが皿そばの始まりだったそうですが、そんな古くからのそばが引き継がれている面持ちもあり堪能しました。


 三軒目は、時計台の前の堀の脇にあって街の一番目立つところにある、大きな構えのお店にしました。生卵ととろろ汁が必ず付いているので、三軒目といえもう十分にお腹は膨れて満腹で出石を後にしました。



 城崎までの途中、豊岡の市街を経て円山川に沿って車を走らせる間、随分の雨でしたが、ほどなく昼過ぎに城崎温泉に到着です。(続く)



 随分久しぶりの書き込みです。



 ふと思い立ちまして、自由の問題について書いてみたいと思います。


 自由とは何かを考えるのは、余りにもテーマが大き過ぎますので、「行動の自由と意志の自由」というテーマに絞って考えてみたいと思います。この二つの自由にはどのような違いがあるのかということです。


 行動の自由とは、自分が何かをしたいと思うときに、他者から強制を受けたり、拘束されたりせずに行為をなしうることです。自分の行動が他者から干渉されずに、実現できるということは、人間にとって不可欠な最も基本的な自由と言うことができます。自分の行為が自分自身に委ねられているということは、個人として、人間として尊重されているということであり、非常に重要なことであります。


 この自由は、他者から強制・拘束を受けない他者からの自由ということで、基本的な自由であることに間違いありませんが、何をしたいかということには関知せず、ただ他者から干渉を受けていないだけの消極的な自由ということにもなります。


 これに対して、自分に行動の自由が委ねられている場合、当然それでは自分は何をしようとするのかが問題になります。行動が制限されず自由だからそれでは行動しようというとき、何を行為するのか、どのようなことをしたいのかを決定して行為することになります。なす行為を選択し、何をするかを決定するのは人間の意志であります。行動が自由であるときに、いざ実際の行動に移すのは意志の自由によって、自らが何をなすかを意志決定して初めて行動を起こすことができます。その意味で、意志の自由は行動の自由の元にある、より根源的な自由ということになるでしょう。


 自分が何をなすのかを自発的に決定し、自己の利益のみを考えて自己中心的に振舞うのか、周りの人たちにも配慮して、他者に親切となり他者を助けるような行為をなそうとするのか、自ら考え選択して行為する行為の主体であるがゆえに、その行為主体である人格が尊敬もされ、尊厳を持つということになります。


 意志の自由は、人間が自由に行動をしようとするときに、その行動の自由の出発点となり、その自由を支える根源的な自由、人間の自由そのものと言うことができます。善悪、正不正入り混じり多様な行為を繰り広げるのが人間。その人間の行為を決定し、人間自身を導いていく自由な活動の根本にあって、その行為を、そして人間自身の在り方・生き方を決定すのが、意志の自由ということになるでしょう。


 ただ、これは、人間が行為という客観的な現実を産み出す前に心の中で主観的に決定する場合の、主観性における根源性ということになります。客観的な現実の社会の中で、いかにその意志を実現していくかという問題が次に到来する問題になります。



 実際的な、現実的な自由の問題としては、この問題がより重要であるかもしれません。


  

 今日は、部分と全体の関係というテーマで書いてみたいと思います。



 部分と全体というと、非常に抽象的な言い方ですが、抽象的な表現の特性でその分様々な事柄に当てはめることができます。基本的には、ある集団とか集合の全体を考えた場合、その全体はそれを構成する部分によって成り立つことになります。部分は、所属する全体がなければそこに場を占めたり存在したりすることができませんが、逆に全体にしても、多くないし幾つかの構成要素があって初めて全体として成立するという相互的な関係にあるということは、まず第一に言えることです。


 部分は全体に依存して自らが存在することができるし、全体も部分に依存してその全体というものであることができるという、相互関係に部分と全体はあると言うことができます。


 具体的な例を挙げますと、一番分かりやすいのは、スポーツのチームとそのメンバーの関係がそうですし、オーケストラとその演奏者、家族全体とその一員、地域社会とその住人などはすべて全体と部分の関係です。


 オーケストラの演奏は、ヴァイオリン、チェロ、フルート、オーボエなどそれぞれの演奏者がいてはじめて奏でることができますし、指揮者に導かれてそれぞれの奏者が心を一つにして演奏することで、よい曲を奏でることができることになります。野球のチームにしても、かつてのどこかのプロ野球チームのように、年俸の高い能力のある選手がたくさんいるからといって、チーム全体が力を出し優勝できることとはまた話は別であります。


 要するに簡単に言いますと、大小様々の社会集団とその中の一員の関係は、その関係の在り方によって様々に変化があるということです。一番大きな社会のまとまりは、全体社会といわれる国家ですが、国家とその一国民、市民との関係も、その国民ひとりひとりによって作られる国の在り方によって、文化から、経済、政治など様々にそれぞれの国によって違いが出てきます。


 先ほども書きましたように、部分と全体というのは抽象的な規定ですので、人間について言えるだけでなく、物についてももちろん、部屋全体とその中の一つの家具、一つの家電製品についてや、ビール1ケースと1本のビールや、社会の仕組み、制度などについても日本の金融制度全体とその中の1銀行や、市場経済制度全体とそこで扱われる1商品の関係などもそうです。小さなところでは、人間の身体全体と手足や臓器などからだの部分との関係なども考えられます。


 制度などは、事柄としては物のやり取りで成り立つことですが、人間が介在して初めて行われますので、単純に物だけの世界ということにはなりませんが。


 また、目に見えるものだけではなく、物語のストーリー全体とその中で起こる様々の出来事、事件の一つ一つもそうですし、ある外界の対象について認識する場合のその認識という働き全体と主観の意識や対象といった部分との関係なども考えられます。


 部分と全体の関係という見方、ないし捉え方は、これら様々な実例すべてを含み込むことができます。


 それがどうしたのか、ということにもなりますが、この見方を探っていくうちに何か見えてくるものがあるのかどうか、それを考えてみたいと思います。


 そうでなくても、抽象的な捉え方ですので、具体的には、国家という全体社会と個人の関係がどのようであるのか、社会と個人の関係ということを中心にして考えていきたいと思います。



 社会という私の周囲の世界に私が影響されるということは、大いにありますし、微力ながら逆に私が社会に影響を及ぼすということもあり得ます。



 そんなことで、社会の中で私はどのように存在し、どのように生きるのがよいのかという問題を考えたいと思います。