ドッグランという歌を作っておいてナンなのだが、特別に犬が好きというわけではない。動物はだいたい可愛いと思っている。ただし猿はあまり好きになれない。小さいころに手をかじられたことがある。
猫は特別に好きだ。あまり干渉せず共存している感じが自分の性にあっているのかもしれない。それから出したウンコを見せないとか、獲物を捕り逃したとき誤魔化すとか、ヤキモチをストレートには表現しないとか、そんなさり気ないプライドも猫のカワイゲだ。
人間が愛情のつもりで可愛がろうとも、猫にとって「構いすぎ」ならあっさりと態度に出して嫌がられる。立ち去ってしまうならまだしも威嚇されることもあるだろう。室内専用の猫、外家両用猫の、地域猫、ライフスタイルによる性質の違いはあるだろうが、やはり猫は猫だと思う。
つぎに犬だ。犬は猫に比べて人間との距離が近い。まず毎日いっしょに散歩しなければならない。自由に散歩しておいでとは言えない。犬は構ってやったり褒めてやると、こちらが驚くほど喜ぶ。犬は人間とより親しくなりたがっているのだろう。人間の執拗なまでのモフリ可愛がりに対し、犬から「ギブアップ」のサインが出ることなどあるのか。仮にウンザリしても犬は態度に出さないのではないか。しつけのせいもあるだろうが、少なくとも人間に対して猫よりも寛容で従順だと感じる。これは格好イイ首輪が欲しいとか、よりグレードの高い餌が食べたい、といった理由で媚びているのではないく一種の「サービス精神」ではないか。
犬の視点で考えてみる。犬はたぶん知っている。人間が自分(犬)に構うのは、単に「可愛いから」という理由だけでなく、自分(犬)を「喜ばせたい」という想いがあることを。それを理解する賢い犬は、多少空気の分からぬシツコイ人間に対しても、悪意が無い限り邪険にすることはない。ある意味ブルースになるような哀しいまでの優しさと献身。人間と犬との永遠に終わらない喜ばせ合い。双方の優しさが向かい合わせの鏡の中で無限に反射するようで逆にくたびれそうだ、と言ったら犬を買いかぶりすぎているだろうか。
実は小さい頃、野良犬に尻を噛まれ逃げ回ったことがある。そのせいに違いないが本能的に吠える犬には警戒してしまう。以前どこかの牧場で吠えまくっている凶暴そうな犬が牛や馬とは別に一匹だけ繋がれていた。その大きな小汚い犬には誰も近づかず、何を吠えているのかも分からないのだが、私の親父が悠々と近づき「どしたどした」と話しかけ可愛がると、そいつはすっかり大人しくなり尻尾までふった。「親父は絶対に噛まれてる」と思ったがそうはならなかった。犬の彼(彼女)は「愛をください」と吠えていたのかもしれない。それが寂しき親父の心に共鳴した、のかもしれない。ふり返ってみれば、半ズボンを破るほど尻に食つき、マンションの四階までも追いかけてきたあの野良の痩せ犬も、私と仲良くしたかっただけなのかもしれない。
ペットショップの店員が、ペット業界の実情について一般人の質問に答えるというWEB掲示板を読んだ。商売になるのだから動物を売り買いするのは仕方がない。しかし多くの動物が何から何まで人間の管理下に置かれていることに寒々しい思いがした。そこには生き物としての自然の営みはありえない。現状ではペットとして「長生きさせてあげる」のが最大の愛情なのだろう。
先日、公園の丸々太った地域猫たちにわざわざ生魚(アジ)を買って与えてみた。驚いたことにまったく食べなかった。仕方がないので焼いて自分で食べた。もっと動物と仲良くなりたい反面、動物にはもっと力強くケモノの道を謳歌してほしい。もし人間が滅んでも生き残れるように。
ペットショップ店員歴6年の俺が内情を告白する
http://blog.livedoor.jp/goldennews/archives/51679829.html