くにこ先生のコーヒーブレイク -4ページ目

くにこ先生のコーヒーブレイク

通りすがりのあなたに、心に残るお話をひとつ

 今、函館に来ております。
 新婚旅行以来37年ぶりの、夫婦二人の旅行に出たところです。
 子育て、仕事に一区切り。

 海大好きの主人の提案で、なんと、豪華客船に乗ることとなりました。
 ブログは、また来週に***
 2016年8月31日午前7時現在。熊本地震回数 2041 回。(ついに2000回越えだ !! )

 お盆で帰熊していた娘たちの家族がそれぞれの家に戻り、我が家は一気に静かになった。
 小さな孫たちの声に代わり、夏蝉の賑やかしい声が響く毎日が続いている。

 窓から外を見ると、道向かいのお宅の屋根や、その向こうに連なる熊本城の崖にかけられたブルーシートが
 風に揺れているのが目に入った。

 そういえば、下の娘一家がこちら(熊本)にいるときに、お友達の住んでいた益城町を通ったと言って
 いたっけ・・・。
 益城町は、先の熊本地震の時、最大震度7を記録した所だ。

 この日も、地震の話題で、皆の会話が続く。

 「益城に行ったけど、ほんと、ひどかったわ。」娘が言う。
 「テレビで報道していたけれど、あの映像よりも、ずっとひどい状況でしたね。」と娘婿。
 「そうでしょ。益城に住んでる人が、『まるで爆撃受けたようですよ。』って言ってたもの。」
 「ほんと。道なんか波打ってて。あれは、大変だわ。」
 「家も崩れたままですもんね。4カ月以上も経つのに、地震の時からほとんど手付かずなんじゃない
  ですかね。復興っていうけど、まだまだって感じでしたね。」
 「テレビでも、もうほとんど扱わなくなったけど、ホントは今からなんよ。」
 「そうだよね。」
 「家の取り壊しって言っても、それから家を建てんといかんし、どうするんだろ。」
 「家を建てるお金が出るわけじゃないしねぇ。」
 「お年寄りなんか、大変だよね。」
 「そうそう。」
 「あんな地震なんて、想像もしなかったもん。生活が一変しちゃうわ。」
 ・・・・・・

 被災した方々は、きっと気の遠くなるような大変さを抱えて毎日をすごしていらっしゃるのだろう。

 (私の実家も被災し、家を半分解体したが、その後、手付かずの状態となっている。
  補助金の制度もあるが、家は全て解体しないと補助の対象とならず、新築するには90歳になる
  一人暮らしの母名義の家しか建てられず、その補助金も微々たるもので、とても家は建てられない。
  かろうじて、母の住むところが確保できているだけでよしとしなければならない状況なのである。)


 被災し避難所生活をしている方も、まだ1000人弱(熊本県発表:8月24日現在、避難所生活者972人)
 おられるとのこと。
 地震発生から4ヵ月が過ぎ、仮設住宅や住宅の補修も進んではいるが、元に戻るには程遠い気がする。


 街中には、いたるところに「がんばろう熊本」「がまだせ熊本」「がんばるばい熊本」「負けるな熊本」
 ・・・の標語が並ぶ。
 多分、標語は、それを掲げたそれぞれの人たちの自分への応援なのだろうな、と思う。

 確かに皆、穏やかで元の生活を取り戻したような顔をして毎日を過ごしてはいるが、あの大きな震災から、
 十分に立ち直るには、多大な時間が必要なのだ。



 さて、地震の後、ずっと通行止めになっていた熊本城の近くの道路が、一部通れるようになった。
 お城の周辺を回る道だ。通勤路として使っていた道なので、通行止めの解除は本当にうれしいことだったが、
 あらためてその惨状には驚くばかり・・・。

 長く高く連なっていた石垣のかなりの部分が崩落していたのだ。
 修復のためのシートがかけられた部分もあるが、崩れた石がそのままになっているところも多くあり、
 被害の大きさを実感せざるを得ない。


 さらに、数週間前から城内にある神社(加藤神社)への道路も開通した。
 大きなお堀を巡り神社に続く道だ。春は美しい桜並木が連なり、わざわざ回り道をしてでも通りたい
 場所である。

 先日、私は、主人とともに、地震後初めてその道を車で通った。
 天守閣の屋根が見え隠れする大好きな風景だったが、高く積まれたお堀の石垣は、無残にもすっかり
 崩れてしまっているではないか・・・。

 あちらこちらの道路が寸断し、大変な状況だということは十分にわかっていたつもりだったのに、
 この惨状を目の当たりにして、私はすっかり心が折れてしまった。

 「これは、ひどいわ。」と私。
 「どこも、こんなでしょうが。」と主人。
 「そうだよねぇ。・・・わかってるけど、これは、ないわ。知らんかった、こんなになってたなんて。」
 「・・・。」
 「あれを治すって、一体どれだけかかるんだろ。」
 「4・5年じゃないの?」
 「そんなんで、出来るんかしら。」
 「さぁ・・・。」
 「できたら、私が生きてるうちに元に戻ってほしいわぁ。」
 ・・・・・・


 熊本は、今でもこのような状態なのだ。

 震災の復興は、本当に本当にこれからなのである。





(追記)
 東北では、観測史上初めての大きな台風の直撃を受けたとのニュース。
 震災の復興もまだまだなのに、本当に大変なことでした。
 心より、お見舞い申し上げます。
 もう90を超した。
 母が亡くなったのは84歳だったから、とうにその歳を追い越していて、いつ死んでもおかしくないと
 思っている。
 毎日寝る前にお祈りするのは、死んだ母や兄が、向こうの世界に連れて行ってくれること・・・。

 最近、おかしなことばかりが起こっている。
 とにかく、ものが無くなるのだ。
 今日はお財布と鍵と、そして病院に行くときのバッグが無い。

 朝草取りに庭に出る間に、きっと誰かが入って持っていくに違いない。
 なんて悪い人がいるのだろう。
 これじゃあ、一日中探し物で終わってしまうではないか。

 娘たちに言うと、すぐ怒るから困る。
 「人を疑うな」なんていうけれど、確かに、盗られているのだもの。
 今日も娘は、「今までも何度もなくなって、そして結局出てきたでしょ。お母さんが、盗られない
 ようにって思って隠したんだよ。」と言うが、決してそんなことはない。
 私が、「隠す」なんてありえないし、そんな覚えもない。
 お財布がないと、買い物にも行けないじゃないの。
 本当に困った。


 今日は、娘たちが「要介護」の何とか、とか言って、私を連れだした。
 お昼間一人でいるから、刺激がないから、デイサービスでも利用したらいい、というのだ。
 私が利用するのだから、一緒に2件ほど見学に行こうという。
 
 気乗りはしなかったけれど、二人の娘が言うのだから出かけたが、とんでもないことだった。
 自由に時間が使えて、好きなことができて、困ったときはお泊りもできるなんていう施設。
 職員さんは丁寧でとても親切そうだったが、あんな所はいやだ。

 何がいやって、あのお年寄りたちの雰囲気が、どうにも受け入れられない。

 どちらの施設も、皆ほとんどしゃべらないではないか。
 ぼーっとした人もいて、一人いたおじいさんは車いすに座って口を開けたまま上を見ていた。
 何故か電気シェーバーを持っていたが、スイッチを入れて顔に近づけたまま動きが止まってしまった。

 「あらぁ、○○さんは、止まってしまいなさったぁ。」

 と職員さんは明るく笑っていたが、周りのお年寄りは無反応だ。

 この場所に、私が?
 ・・・絶対に、いや。

 最近、物忘れが酷くて困ったことも多いから施設にでもお世話になった方がいいかと考えたことも
 あったけれど、これが施設の現状なのか。
 自分でできることは、やっぱり自分でしよう。
 できるもの。

 皆が、係りのケアマネとかいう人が来るのを待って説明を聞きましょう、と言う。
 用事で遅れているらしい。

 「折角だから、レクリエーションを今からやりますから、参加なさいませんか。」

 とお誘いを受けたが、とんでもない。
 黙って手を引かれながら集まったお年寄りたちが、声もなく簡単な体操をしている。
 その後は、風船飛ばしだ。
 皆、無表情で風船を飛ばしている。
 さっきのおじいさんは、また風船をもって止まっているではないか。

 職員さんの声だけは明るいが、皆、本当に面白いのか?


 突然、私が持っていた自作のバッグを見て、職員さんの一人が興味を持って声をかけてくれた。
 
 そう。これは、私が作ったの。

 「お上手ですねぇ。いいですね。そんなバッグが作れるなんて。」と職員さん。

 有り難いことだ。
 そういえば、昨日、元袋物教室の生徒さんだった山本さんが電話をしてくれたっけ。

 ・・・そうだ。山本さんが来るかもしれない。帰ろう。

 「お母さん(自分の事)、もう帰るわ。」と横にいた娘に私は小声で言った。
 「いやいや、お母さん。もう少ししたら係りの人がみえるから、お話聞いてから帰ろう。」と娘は返すが、
 もう耐えられない。

 「お母さん、歩いて帰るから、あなたたち居なさい。」
 「え、そんな、ここからの道、わからないでしょ。それに、お母さんの足じゃ、お家まで歩けないよ。
  車で帰るから待って。」
 「何言ってるの。帰れるよ。ばかにしなさんな。」

 私はつい語気荒く娘に言ってしまった。
 
 とにかく帰らなくちゃ。
 私は立ち上がって、近くの職員さんに笑顔で声をかける。

 「ちょっと、来客がある予定ですので、すみませんが失礼いたします。」
 「あらあら、もう少しで係りが参りますので、お待ちになりませんか。」と職員さん。
 「いえ、いつ来られるかもわかりませんので、今日は失礼いたします。」
 「まあ。ホントにすみません。もう少し早く帰れるとよかったのですが。」
 「いえいえ。」

 娘たちは戸惑った様子だったが、こんなところ早く出なくちゃ。
 私は急いで椅子を立つと、歩き始めた。
 慌てて娘たちが席を立つ。
 お礼もそこそこに、私たちは施設を後にした。

 娘は、懲りもせず、今度はデイサービスで手芸をやっているところに行ってみようか、という。
 できれば行きたくないから、断ろう・・・。
 私は、一人でいる方が気楽でいい。
 外に出て、またほかの人に気を使わなくちゃいけないなんて、私の望んでいることではないもの。

 いろんなものが無くなるけれど、それだけだ。
 私はご飯も作って食べられるし、お買い物にも行ける。
 お風呂にも入る。
 何も不自由なことはないのだ。


 帰ったら、また財布がない。
 ・・・探さなくては。






(追記)
 28歳の時、母は8歳年上の父のところに嫁いできた。
 戦争で兄を失い、母子二人で暮らしていたが、30歳を目の前にして、母親から「あなたが結婚しなければ
 死んでも死にきれない。」と言われ、決断をしたのだという。
 それまで医大の検査技師補助員として堅実な仕事をこなして家計を支えてきたが、ここに来て、生活は
 大きく変わった。

 結婚と同時に、母は、父と両親、そして父の弟と妹と同居することになったのである。
 母の結婚は、こうして実に大人6人の大所帯から始まった。
 義弟(私の叔父)はほどなく結婚して独立したが、次々に3人の娘たち(私たち3姉妹)が生まれ、
 8人家族という大所帯へと変化する。
 
 この家族を支えていかねばならない嫁としての立場は、相当な負担だったのではないかと思う。
 高度経済成長期の半ばは、お年寄りが、介護が必要になっても、施設に入れるという選択はほぼ
 考えられなかったから、祖父母が病気になっても全て母が世話をした。
 寝たきりの祖母の介護をし、認知症の祖父の世話をしたのもそのころだ。

 その後、叔父叔母の生活の面倒を見、糖尿病を患った父の健康に気を遣い、そして、皆を看取った。

 温厚で努力家で真面目な当時の母は、今思い返しても、良妻賢母を絵にかいたような人だった。
 苦労話を聞けるほどに私たちが成長するまでは、ずい分と時間がかかったから、家族の世話を一手に
 引き受けてきた母は、ひたすら頑張り続けた。
 
 私は、母がゆっくりと休んでいる姿をほとんど見たことがない。
 多分、暇を嫌ったのだろう。
 少し時間に余裕ができるようになると、自分でできることに挑戦するのだった。

 お茶やお花やお箏は花嫁修業や趣味でしていたが、加えて通信教育で様々な資格を取った。
 習字や袋物(バッグの手作り)は、師範の資格まで取り、私たちが独立した後は、生徒さんを募って
 教室を開くまでになっていた。


 2011年の東北大震災のあった数か月後父は他界したが、その父を支えた気持ちの張りが無くなってしばらく、
 母は精神的に不安定な状況が続いた。

 気持ちが落ち込んで何もやる気が起こらない、死にたい、お母さんお兄さんに「早く迎えに来て」って
 拝んでるの・・・毎日のように繰り返される母の気持ちを聞くのも辛い毎日だった。
 時間ができると、ドライブに誘い、温泉に行き、カラオケで歌った。
 妹たちも、何かにつけて気遣いをしてくれ、 時が過ぎ、薄皮を剥がすように母の調子は良くなって
 いったのである。
 続けていた袋物の教室に通ってくるおば様たちとの会話も元に戻ってきた。


 しかし、それも長くは続かなかった。
 ほどなく、母の様子が変わってきたのだ。
 私たち周りもそれぞれの忙しさにかまけて、母に寄り添う時間が減っていったのも原因していたのかも
 しれない。
 少し前のことを忘れるようになり、同じ話を繰り返すようになった。
 だが、それほど困ったことでもなく、日常生活が不自由になるわけでもなかったので、「お母さん、
 だめやん、忘れちゃ。」と冗談めかした会話でごまかしていた。


 決定的に変化したのは、あの『熊本地震』の後である。
 物理的な損壊は本当に想像以上のものがあったが、それにも増して大変だったのは、母の精神的な
 ダメージだった。

 地震直後に満90歳の誕生日を迎えた母は、冗談めかした会話ではかわせないほど、認知症の症状を
 一気に悪化させた。
 地震直後の混乱の中で、私たちは、日に日に状況が呑み込めなくなってしまった母を見守る大変さに
 直面することになったのである。

 母の住む家は、2度の大きな地震で損壊が激しく、住居の半分を解体せざるを得なくなった。
 家の大きな変わりようは、それまで家を守り続けた母にとっては耐えられないほどの状況だったに違いない。

 物忘れが酷くなり、毎日の日課は「探し物」となった。
 「財布が無くなったの。」「お医者さんに行くときのカバンがないのよ。」「鍵がどこかに行っちゃった。」
 ・・・。
 そして、加えて「誰かが盗ったのよ。」と母は言う。

 「そんなことあるはずがないでしょ。お母さんが、どこかになおした(しまった)のよ。探そう。
 だめよ、人を疑っちゃ。」・・・妹と繰り返し繰り返し母に話すが、なかなか納得は出来ない様子。

 「あなたたちに言うとすぐ怒られるけど、お母さん(自分)がどこかに隠すなんてありえないでしょうが。
  ・・・お母さんがいないときに、誰かが入ってるんよ。気持ちが悪い。」・・・。

 母の中では、それが真実になっていること、病気がそう思わせていること、は分かるが、会話の度に
 気持ちがすり減っている自分と向き合うことになるのはつらいことだ。


 母は、連れて行ていった病院で「アルツハイマー型認知症」の診断を受け、介護認定で「要介護2」の
 判定を受けた。
 つい最近まで介護とは縁のない生活を送っていたのに、いきなり介護が必要だということで、こちらも
 対応に苦慮することになった。

 様々な方々の助言も受け、施設のデイサービスのある所を紹介してもらい、先日2施設ほど見学させて
 いただいた。

 お昼間一人でいるのではなく、少しでも刺激になれば、とのこちらの思いとは裏腹に、母は施設に
 大きな拒否反応を示した。

 母の気持ちになったらどう映るのか、と文を書いてみたのが、今回の「母のひとりごと」である。