三日月が雲の間から顔を出した時、姪っこが車の窓から空を見上げて隣に座っていた私に言った。
「お空が、ねんねしてる。」
「あぁ、ほんとね。お空、ねんねしてるね。お空もお休みしてるから、もう寝ようか。」
「うん。」
「おやすみなさい。」
「おやすみなさぁい。」
「・・・・・」
厚く重たく垂れこめた雲の隙間から、お陽様の金色の光が帯のように射しこんでいる。
見上げていた娘が指をさす。
「お空が、やぶけてるよ。」
「あらら、そうだねぇ。お空、やぶけちゃったんだ。」
「すごいねぇ。」
「お陽さまが、お空の上にいるからね。」
「そっかぁ。」
しばらくの間、娘は空を見続けた。
どちらも2歳くらいの小さな子どもの頃の話である。
いきなり話しかけられ、その発想に驚くのはいつも私の方だった。
空は眠ったり、破れたりするものらしい。
小さな子は知っている言葉を駆使して、自分の思いを相手に伝えようとする。
その拙い表現が、逆に大人たちをハッとさせるのである。
子どもたちが小さい頃、私たち家族は、夏休みになると毎年のように小旅行に出かけていた。
熊本近辺の県は、そこそこ子どもたちの喜ぶ場所を見つけることができる。
海や山や川は、まあそれだけでも子どもにとっては魅力的な遊び場なのかもしれないが・・・。
ディズニーランドのような豪華な遊園地は無いけれど、近場の小さな公園も捨てがたい。
広い場所ではしゃぎまわる子どもたちは、思いもかけない遊びを始めるのである。
鹿児島の桜島のふもとにある「恐竜公園」を訪ねた時のことである。
息子が恐竜に心酔していたこともあり、「恐竜公園」の名前につられて、何があるのだろうと訪れた場所だ。
しかし、そこは、恐竜の資料がある、というようなところではなかった。
「恐竜公園」と名が付いているのは、広い土地のそこかしこに恐竜の形をした大きな滑り台とか、遊具が
置いてあるから、ということらしかった。
(もう20年近くも前のことだから、変わっているかもしれないけれど・・・。)
遠く広がった公園を見ながら、あらあら、何もない・・・と思っていた時である。
「わーい。」
「ひろーい。」
「きょうりゅうだぁ。」
子どもたちは、もう歓声をあげてあちらこちらと走り回っている。
恐竜の滑り台では、何度も何度も登ったり降りたりを繰り返す。
恐竜が頭を下げて口を大きく開けているところが、滑り台の降り口である。
3人の子どもたちはわぁわぁと楽しんでいたが、そろそろ飽きてきたかなぁ、と思っていた矢先、また皆で
はしゃぎ始めた。
「わー。たすけてぇ。」
「たっすけてぇ。」
「たべられるぅ。」
「ぎゃー。」
3人の子どもたちがお団子のように折り重なって、恐竜の口から両手を上げて笑い転げている。
「ママ、ママ、写真撮ってぇ。」
「パパぁ、たすけて――。」
恐竜に食われそうな写真をパチパチ。
やっと遊び疲れて帰ることになったが、子どもたちは「楽しかったねぇ。」を連発した。
それにしても、遊びの中とはいえ、「恐竜に飲み込まれる」という発想は私にとってとても新鮮だった。
それはまた、観客を意識して演技することを楽しむ、ということでもある。
こともなげにそういう発想をする子どもに妙に感心してしまったのも事実だった。
しばらくして、「あの時は、とってもびっくりして、すごいなぁと思ったんだよ。」という話をしたら、
「そんなの、あったりまえじゃん。」という答えが返ってきた。
子どもにとっては、何のことはない普通の発想だったらしいのである。
そういえば、段ボール箱はテレビになり、子どもは中で「映っている人」をやっていたっけ。
布団の中では「みのむし」になりきってたし。
何だか、硬直したものの見方しかできなくなってしまったような気がするこの頃。
久しぶりに子どもたちの当時の様子を思い出した。
あの自由な発想ができたら、どんなにこの世の中面白いことだろう。
「恐竜公園なんて遠いから、もう行くことないよなぁ。」とか、「テレビは薄型になったから、段ボールは
テレビに変身できないよね。」とか、「ミノムシなんて見ることないし。」とか、ものすごーく貧相な発想に
なってしまう自分が悲しい。
(*^_^*)ごあいさつまで
あけまして、おめでとうございます。
さて、今年初めての記事となりました。
いつまで出来るのか分かりませんが、ブログも、ぼちぼちと続けられたらいいなぁと思っております。
毎週、水曜に更新しています。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
本年も、皆さまにとって、素敵な良い年となりますよう。