服 | くにこ先生のコーヒーブレイク

くにこ先生のコーヒーブレイク

通りすがりのあなたに、心に残るお話をひとつ

 誕生日に、服をもらった。
 毎年、秋口の私の誕生日になると、主人と子どもたちがプレゼントを贈ってくれる。
 歳をとることは以前ほどワクワクはしないけれど、プレゼントは素直に嬉しい。
 ただ、主人や息子は出資者に徹しているようで、かの服は「娘たち」の選択である。

 結婚した娘が旦那さまと一緒に贈ってくれたのは、からし色のパフスリーブのカーディガン。
 白い小さなレースが付いている。

 「こんな色、かあさん、持ってなかったでしょ。似合うかなぁと思って。」とのこと。

 二女が、主人と息子も一緒だよ、と手渡してくれたのは、シックなインナーと黒のカーディガンのアンサンブル
 と半袖の上が黒、下が花模様のワンピース。

 「わっ、ありがとう。うれし。着てみていーい?」
 「うん。」
 ・・・・・
 「どお?」
 「うん、やっぱ、いいんじゃない? 似合うよ。」
 「そお?ほんと、ありがと。ね、あなた、どお?」 
 「いーんじゃ。」(ぼそりと、いつもこの答えしかないけど。感謝。)
 ・・・・・

 この服を、もらった次の日から、職場に着て行っている。
 本当にありがたいことである。

 私の着る服については、よく「〇〇先生らしい」と言われている。
 なぜか、学生さんからも同僚の先生方からも同じ言葉を頂戴する。
 今回着ていった服も、「らしい」という評価だった。
 まあ、そんな服を娘たちが選んでくれた、ということなのだろうが・・・。
 大抵は、ちょっと可愛目(?)、シンプルなデザインと、抑えた色合いの服である。
 かっちりしたスーツはほとんど着ないので、「先生」というイメージではないなぁ、と思っている。

 さて、私は一体まわりにどういう風に映っているのだろう。
 うーん、この歳で「かわいい」はないよね、とか、おとなし過ぎでもないか、とか、思ったりはするのだけれど、ね。

 確かに、自分の選ぶ服は、どれも似ている気がする。
 逆に考えると、それが私らしさを演出している、というのかもしれない。
 でも、これは、多分皆そうなのだろう。
 田中先生も緒方先生も佐藤先生も・・・、それぞれに田中先生・緒方先生・佐藤先生らしい服である。
 学生さんたちも、それぞれに選ぶ服には個性がある。
 娘たちもそれぞれに「らしい」服を選択している。
 主人と息子は、私たちが選んだ服しか選択の余地がないようにも思えるけれど、それでも気に入らないと
 手を通さないから、やっぱりそれぞれの「このみ」に合わせた服になっている。

 そうありたい、そう見えてほしい、というところから服の選択はなされているのかもしれない。
 クローゼットに入っている服を思い浮かべると、なぜか似通った服ばっかりというのも、頷ける気がする。
 たまに、思い切って違った雰囲気の服を買ったりしたこともあったが、結局、捨てるに捨てられず、殆ど
 着ないままぶら下がっている。

 「人は、外見ではない。」と言うが、やはり外見で判断されることは否めない。
 (もちろん、外見で人を判断できるなんて、思ってはいないのだけれど。)
 第一印象、見た目、は、思った以上に周りにインパクトを与えるものなのである。
 その人「らしさ」が現れている、と「周りが思う」ということである。
 時間をかけて話したりしない限り、人となりを判断することは難しい。
 だとしたら、自分をわかって欲しいと思う時は、「それらしい」恰好をした方がよいようである。


 40年ほど前、ミニスカートが流行った時期がある。
 イギリスからやってきたモデルのツイーギーが火付け役だった。
 あまりに可愛くミニを着こなしていたので、皆それにあこがれたのである。
 この頃は、誰もがミニスカートだった。
 小さい子からおばさん、おばあさんまで、足の細い人も太い人も、皆。
 まあ、どんなお店に行ってもミニしか置いてなかったから、選択の余地はなかったともいえる。

 そしてその数年後、いきなり長いスカートが流行った。
 マキシとかロングとか言っていたが、それこそくるぶしが隠れるほどの丈である。
 パンタロンというパンツもあっという間に広がった。
 脚を見せるのが、急に恥ずかしくなってしまった時期である。
 思い出すと、その頃の「怖いお姉さんたち」は長いスカートを引きずるようにして歩いていた。

 シースルーが流行り、ボディコンが流行り、お嬢様ブームがやってきた。

 今は、それこそ「何でもあり」のファッションで、選択の幅はうんと広くなったようだ。


 それでも、どんな時代にあっても(スカートが短かろうが長かろうが、服が透けようが透けまいが、だぶだぶに
 なろうがぴったりしようが)関係なく、その人「らしさ」は表現されてきたような気がする。
 色や着方によってかもし出される雰囲気は、それなりに人にアピールされ、その人の「人となりの印象」に
 つながっていくのである。
 あぁ、きっちりした人だな、とか、遊んでいる人だな、とか、周囲の人は感じてしまうのだ。

 そして、不思議なもので、その外見から自分が規定されてしまうこともある。
 そういう格好をすることで、そう振る舞う人になってしまったりするのである。
 
 自分が変わりたいと望む場合、洋服を変える、というのは存外簡単で良い方法なのかもしれない。


 のりピーが保釈の時に来ていた服も、法廷での服も黒っぽいスーツだったそうだ。
 もし、色がド派手だったり超ミニスカートだったりしたら、きっと、周りの反応は違ったものになっただろう。
 少なくとも、外見で拒否されることが無かっただけでも、正解なのかな。