77景 鉄炮洲稲荷橋湊神社 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  77景 
 題名  鉄炮洲稲荷橋湊神社 
 改印  安政5年2月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  安政4年初夏 

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-鉄炮洲稲荷橋湊神社


 鉄砲洲とは、江戸開府して間もない頃、この辺りは土砂が堆積した洲であったが、そこで大砲の試射が行われたことに由来する。中央にある橋は稲荷橋で、鉄砲洲は橋の左側の島を言う。右側は霊岸島である。
 稲荷橋の下を流れるのは桜川で、その先は京橋で76景の京橋川に繋がっている。

 手前に帆船の帆柱が描かれていて、手前に船が停泊しているのがわかる。この辺りで停泊している船は中型の船で、千石船は高輪まで、中型船は芝か佃に停泊するのである。荷物を高瀬船に載せ換えて、絵にあるように桜川や、亀久川を使って、ここからどしどし江戸の中心に荷物を運ぶのであった。

 手前に描かれている帆柱を、もう少し詳しく解説してみる。右側の帆柱は、先端まで描かれており、構造が良く分かる。帆はしょっちゅう上げ下げすることから、先端の少し曲がったところは滑車が付いている。滑車が回るときに鋭い音がすることから、蝉(せみ)と呼ばれる。
 帆柱の左側に描かれている縄は、筈緒(はずお)と呼ばれる麻縄で、帆柱を安定させるために船首につないである。この筈緒が痛まないようにササクレみたいな帆摺(ほずれ)というものをつける。これは帆が風で膨らんで帆と筈緒がこすれて痛まないようする役目がある。
 構図的にも、帆柱、屋根、富士山で三角形を連続させる構図になっていておもしろい。

 稲荷橋神社は、絵の中で赤い建物がそれにあたる。波除稲荷として船乗りの信仰が厚い神社であた。境内には富士塚があり、富士の溶岩を積み上げて作られていて現存している。
 三角形の構図を採用しているにも関わらず、なぜかこの絵には描かれていない。
 嘉永3年の絵本江戸土産第3篇に、富士塚が描かれているので、載せておこう。

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-絵本江戸土産鉄砲洲湊稲荷境内の不二



 この辺りの地震被害を見ておこう。
 あまり記録が残っていないが、霊厳島では明石町や十軒町がほとんどの家屋が潰れ、大名屋敷から出火して数町の町屋が焼けたとある。この辺りは築地門跡(築地本願寺)が無事だったことが注目され、周囲の記録があまり残らなかった。
 地震では記録が少ないものの、翌安政3年8月25日の台風では、この辺りは大被害であった。本湊町、十軒町は、高潮によって家屋がみんな持って行かれ、築地本願寺も倒壊した。海に面した鉄砲洲稲荷も相当の被害があったに違いない。

 最後にこの絵の描かれた日を推測してみるが、特定の難しい絵である。改印が安政5年2月で、地震のあった安政2年10月からは2年以上たっている。復興を描くなら地震よりも台風ということになるが、残念ながら神社が修理された記録が見当たらず、この線からの特定はできない。
 この絵は秋に分類されているが、絵の季節感から初夏であろう。ツバメやひとびとの服装、富士山の積雪の残りなどが、その理由である。従って、台風後に稲荷が修復されたある初夏の一日を描いたと推測する。


この記事で参考にした本
広重 名所江戸百景


広重と浮世絵風景画
日本地震史料
安政風聞志

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