78景 鉄炮洲築地門跡 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  78景 
 題名  鉄炮洲築地門跡 
 改印  安政5年7月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  安政5年初夏 

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-鉄炮洲築地門跡



 77景に続き鉄砲洲を題材とした絵が続く。
 この78景と次の79景は、名所江戸百景でなく、江戸百景余興となっている。これは百景をそろい物として束ねて売りに出されたときは77番目になったが、絵が単品で販売されているときは、この作品が112番目にあたり、広重としては百枚を超えたこのシリーズを終えるつもりで、余興を描いたつもりだったのだろう。しかし絵の売れ行きは好調だったようで、この2枚のあとは再び名所江戸百景と題を改めている。

 築地門跡とは西本願寺のことで、絵にあるとおり大屋根を持った大伽藍であった。しかし改印の時点では、この風景は見られないものとなっていた。
 77景でも少し書いたが、西本願寺は地震の翌年安政3年8月25日の大台風によって倒壊してしまったからである。再建されたのは万延元年(1860年)11月18日なので、広重の死後である。そのため、想像で描かれた絵であることは明らかである。

 こんなわけで、将来大伽藍ができたことを想定してか、あるいは過去の面影を思い出してかの絵なのだが、その他の細かいところは写実的である。
 手前から解説すると、2艘の帆船が描かれている。これは77景でも書いたが、中型の船でまだ帆を張っている。これから鉄砲洲の泊地まで行くのだろう。帆摺もちゃんと描かれている。

 その奥に4艘の小舟が描かれている。左の2艘は、投網の漁師で腰に蓑をつけている。真ん中のつりをしているのは、シロギス釣りの舟である。アオギスは神経質な魚なので舟で釣ることはなく、またキス釣りは上品な釣りなので、1艘に4人の釣り客までと暗黙の決まりがある。
 右の帆を持っている一艘は、おそらく酒を運んでいる。帆のある舟が入れる日本橋周辺の堀は、三又から三十間堀に入るルートしかないが、酒といえば新川周辺なので、新川周辺の銀町辺りに運ぶのではないだろうか。
 絵は余興であるが、これらの帆は、布目摺りが施されていて、手間をかけた1枚である。

 島のほうを見てみると、護岸が石垣で出来ていて、かなりしっかり作られている。右側には波止めの堤防があり、波で浸食しないようにしているのだろう。良く見ると石垣には階段がついており、その上には料亭らしき建物が描かれている。
 しかし明石町で有名な料亭は見当たらず、また江戸名所図会には荷揚げ場所として描かれており、実際は問屋が集中する場所だったようだ。
 はっきりと描かれていないが、石垣の絵の中央あたりに水路がある。絵では見えないが、ここに明石橋がある。俗称、寒橋(さむさはし)。

 この辺りの安政地震による被害は、「鉄砲洲明石丁拾軒町皆潰申侯」と短いが、明石町、十軒町といった海沿いの建物は倒壊している。他の鉄砲洲の大名屋敷も皆倒壊しており、洲を埋め立てて作ったので地盤の弱さが被害を大きくした。そんな中で本願寺の大伽藍が残ったのは奇跡的である。
 しかし地震の翌年の、安政3年8月25日の台風では、本願寺の大伽藍は倒壊、海沿いの明石町、船松町、上柳原町、南本郷町、十軒町、南飯田町は、高潮で町屋が流されるという被害を再び被った。
 倒壊後の絵が安政風聞集に描かれている。

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-安政風聞集 築地門跡


 最後にこの絵が描かれた日を推測してみよう。改印が安政5年7月、また余興と付いているところ、西本願寺が先の台風で倒壊し、恐らくは建設中だったことなどから、改印直前の絵と予想できる。
 台風で被害のあった町屋は、整然としており、改印の時期には修復されていたと思われる。火事の多い江戸では、建物の復興は意外と早い。
 百景では秋に分類されているが、キス釣りは夏が時期である。また人々の服装も真夏ではなく、少し袖の長いものを着ている。
 これらのことから、改印のある年の初夏、すなわち安政5年の初夏を想像を交えて描いたものと推測する。

この記事で参考にした本
広重 名所江戸百景

釣魚をめぐる博物誌

日本地震史料
安政風聞集

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