74景 大伝馬町こふく店 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  74景 
 題名  大伝馬町こふく店 
 改印  安政5年7月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  安政5年7月 

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-大伝馬町こふく店


 この絵の後ろに描かれている大きな店は大丸呉服店である。大丸は寛保3年(1743年)、江戸の大伝馬町3丁目に江戸店を開店した。天保11年(1840年)には三井越後屋が月商1万1千両、大丸は7千両、白木屋が5千両と、第2位に浮上するまで繁栄した。

 百景は広重の死後に、114の絵を季節ごとに並び替えて、表紙を付けて土産品として売り出された。この絵は74番目の絵で秋の分類になるが、発売された順としては106~110番目の絵(改印が同じ絵が4枚ある)であり、シリーズの最後のほうの作品になる。
 百景では江戸で定番とされる名所がいくつか欠落している(例えば、目黒不動、深川八幡、恵比寿屋など)一方、今まで名所とされなかった所を選んでいる。大久保純一氏によると、この大丸もその1つだという。
 この作品の改印から2ヶ月後にコレラによって広重は死去してしまったので、危うくこれほどの大店が名所にならないところだった。

 さて、大伝馬町と言えば先に、7景「大てんま町木綿店」が描かれている。同じ大伝馬町なのに、これらの配置はどうなっていたのだろうか。
 goo地図の当時の江戸の地図を見てみよう。木綿店は大伝馬町1丁目、対して大丸は先に挙げたように3丁目にあった。しかしいくら探しても3丁目はない!
 実は通旅籠町を当時は大伝馬町3丁目と呼んでいた。一説によると、通旅籠町よりも大伝馬町の方がブランドイメージが強いため、大丸ではあえて大伝馬町と呼んでいて、店の引札にも大伝馬町3丁目となっている。またこの町の木戸にあった木標が「通旅籠」とあるのを、大丸の下男が「店のためにならぬ」とその都度はぎとったという話(長谷川時雨『旧聞日本橋』)がある。
 広重は、入り銀物であるこの絵には、当然大伝馬町と書いた。

 大丸の次に目に付くのが、「棟梁送り」の一行である。棟梁送りは、棟上げされた屋上に祭壇を設けて行われる儀式で、一行の様子からもわかるように衣装や道具の豪華さから、そうとうな金持ちの家が行ったのだろう。
 改印が安政5年7月、安政地震から2年半経っている。安政地震では、地震とその後の火災で江戸の町は壊滅的な被害となったが、底力のある江戸の町人たちは、安政4年までには概ね復興した。安政4年までは復興景気で羽ぶりも良かったが、安政5年になると反動で景気が悪くなったという。そのため、描かれたころは、棟梁送りもそれほど豪華なものもなかったであろう。

 最後にいつものように、この絵が描かれた日を推測してみる。絵を見る限り手掛かりになるようなものがない。「棟梁送り」の一行がどの家で行われたかわかればと思ったが、それも手掛かりがなかった。
 そこで百景の出版順を見ると興味深いことがわかる。7景「大てんま町木綿店」が安政5年4月の改印で出版されている。この絵は7月であるから直前である。おそらくは大伝馬町1丁目の木綿店の入り銀ものの名所を見て、大丸は対抗心からこの絵を頼んだのではないかと思う。
 さらに安政5年4月19日には、日本橋通一丁目の白木屋呉服店にハリス一行が買い物に訪れるという珍事が起こった。同じ呉服店として話題をさらわれてしまったことも影響しているのではないかと思う。
 よって、日にちは特定できないが、改印の月にあわてて頼んで描いたのではないかと思う。

 本来はここで記事は終わるのだが、白木屋にハリスが訪れたことについて、脱線してみよう。
 雉子町名主の斎藤月岑は、江戸名所図会、東都歳時記を著書していて博学であり、幕府にとっても非常に有益な人物であった。そのため、神田祭礼取扱掛、御青物役所取締役などさまざまな役に任じられている。安政4年10月にハリスが江戸に来たとき、月岑のような取締掛名主たちが、交代で蕃書調所に詰めるている。
 そのため月岑にとってハリスは無縁の人ではなかった。蕃書調所には数日おきに詰めていたが、さすがに負担が大きかったため、後にこの役は解任されている。
 $広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-斎藤月岑日記アメリカ人参府
 ハリスの江戸滞在は、数か月に及び、暇をもてあましていたハリスは遂に日本橋に買い物に出た。その時の警護に月岑は借り出されている。
 当日の様子が日記に記されている。ハリスは三河町、新銀町、雉子町と自分の支配町を通って、鍋町の粉川(鋳物屋)、鍛冶町西村(鋳物屋)、今川橋の瀬戸物屋(今川橋は瀬戸物屋が多い)、通一丁目の塗物其の外を購入した。
 この通一丁目の買い物が白木屋である。白木屋は呉服店であるが、雑貨も売っている店であった。このことは「白木屋三百年史」にも記述がある。
 ハリスは日米修好通商条約を結んだ立役者であるが、意外なところで江戸町人とも接点があったのだった。


参考文献
新収日本地震史料〈第5巻 別巻2〉安政二年十月二日 (1985年)


広重―江戸風景版画大聚成
広重 名所江戸百景
白木屋三百年史 (1957年)
斎藤月岑日記6

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