73景 市中繁栄七夕祭 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  73景 
 題名  市中繁栄七夕祭 
 改印  安政4年7月 
 落款  廣重筆 
 描かれた日(推定)  安政4年7月7日 

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-市中繁栄七夕祭


 この絵は題の通り、ひしめくほどに七夕飾りが林立し江戸の繁栄が見て取れる。改印が安政4年7月ということで江戸を壊滅させた安政地震から約1年半、江戸の町の完全復活を象徴する1枚である。

 初めに江戸時代の七夕はどのような日だったのか解説してみよう。
 まず武士。江戸城は七夕の節供が行われる。大名や幕臣は白帷子(しろかたびら)に長裃で総登城となる。長裃は長袴なので、殿中では袴の膝のところを引き上げるように持ち、爪先で袴の裾を蹴るようにして歩き、馬で登城する武士は裾をまくって乗った。

 江戸町人は、井戸替の日となる(厳密には七夕のころ)。井戸替とは、井戸の中の水を一度全部掬って、底にたまった泥を取り中を洗う。このとき井戸に落としてしまったものも引き上げられるため楽しみな日でもあった。
 七夕飾り用の青竹売りは前日くらいから行商が出た。そして願い事を書き、短冊として飾り付ける。商家は大福帳、子供は習いものの道具、大人は杯やひょうたんとっくりなど自分の嗜好品、さまざまなものを飾り付けた。

 次に絵に描かれているところの安政地震での被害を見てみよう。
 そもそも描かれた場所はどこであろうか。手前の家屋は立派な蔵があり、左手に江戸城、正面に富士山が描かれていることから、日本橋の南、それも当時最も栄えた目抜き通り付近である。広重の晩年の住居は日本橋大鋸町で、一説によると広重宅の2階から見た風景を描いたとされる。そうなるとここは、南伝馬町一丁目や、南槇町、桶町などが描かれたと推定される。

 当時の地震被害を見ると、「京橋より南伝馬丁迄不残焼失」とあり、絵に描かれているところは全焼した。
 それまで南伝馬町三丁目の十字路の角にある四軒の商家は黒い蔵造りで、京橋の四方蔵といっていて、火事はこの四方蔵で食い止められてた。しかし安政地震では蔵の壁が崩れてしまい、そこに京橋からの火が回って、あえなく類焼してしまった。
 このとき広重宅どうなったかというと、京橋からの延焼が南鞘町まで迫ったが、運よく焼失を免れた。

 地震で跡形もなくなった家屋が、わずか1年半でもとの姿に戻り、さらに例年のように七夕飾りが林立する姿は、広重にとっても感慨深いものがあっただろう。

 話はそれるが、広重の2階の様子を記した資料が残されている。内田実氏が後年、広重の養女と知り合いだった那須みねという女性の談片に
廣重さんの家は、一軒立ちの二階家で、私の子供心には、家も庭も廣い善い宅だと思つてゐました。廣重さんは、平生二階の居間に居られ、私達が遊びに行つても、廣重さんの在宅の時は二階へ上がれませんでした。
とあり、広重はいつも二階にいて仕事をしていたようだ。この風景をいつも見ていたのだろう。

 最後にこの絵が描かれた日の推測をしてみよう。広重は百景でこの絵を描く前に、この絵と同じような構図の絵を描いている。その中で最も早い作品が、江戸高名会亭尽(天保後期)の「日本橋 万町柏木」である。
 柏木は高級料亭で、座敷は月琴、提琴、洋琴による合奏の合間の体。鴨居の額絵は諸家の寄り合い描きで、料理茶屋の座敷が諸派交流の場であったことを示唆している。

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-江戸高名会亭尽 日本橋万町柏木(天保後期)
江戸高名会亭尽 日本橋万町柏木(天保後期)


 その後、嘉永5年(1852年)に出版された不二三十六景「大江戸市中七夕祭」では横構図と風の向きが異なる以外、全く同じ景色を描いている。
 描いた月に改印をもらうには、下絵から校合摺りのために彫り、改印をもらわなければならない。もし7月7日当日に描いたなら、そこまで作業を進めるのは難しいことから、実際には7月7日以前に自宅の2階から見える復興した江戸の町と、「大江戸市中七夕祭」から持ってきた構図を合わせて、七夕の日に見えるだろう風景を想像して描いたものと思われる。

参考文献

新収日本地震史料〈第5巻 別巻2〉安政二年十月二日 (1985年)


広重―江戸風景版画大聚成


大江戸復元図鑑 武士編


川柳江戸歳時記

実録・大江戸壊滅の日 (1982年)

浮世絵芸術 江戸高名会亭尽(大久保純一)


この記事は全てオリジナルです。許可なく他への引用は禁止です。