夢酔独言 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 江戸の研究の1つとして、「夢酔独言」(むすいどくげん)を読んだ。「夢酔独言」は、江戸城開城で有名な勝海舟の父、小吉(隠居後は夢酔と称す)が晩年に、自分の所業を思うがままに書きとどめ、子孫に戒めとするようにしたものである。
 自分のやっている広重の研究では、天保~安政にかけて、斎藤月岑日記や、藤岡屋日記のように1日ごとの記録となっている書物を探しては読んでいる。そしてブログテーマである、「百景が描かれた日」を1つでも決定づけできればと思うのである。
 もう1つ最近研究しているのは、首切り浅右衛門こと、山田浅右衛門(代によっては朝右衛門)についてである。いままでも本を読んだり、史料から断片的に調査してきたが、よくわからないことが多い。今回は、小吉が浅右衛門に弟子入りしているとの情報から、「夢酔独言」を読んでみようと思ったのである。

 この勝小吉という人物は波乱万丈で、男谷家から勝家には7歳で養子に入り直ぐに勝家を継ぐ。小普請支配組頭と面会したとき、7歳で継ぐというわけにはいかなかったので、17歳と答えて笑って見逃してもらったという。
 養子に入ったといっても勝家の養親はふたりとも死に、他の親族は男谷家に引き取られ、小吉も引き続き深川の実家で暮らす。

 9歳で柔術、10歳で馬術、11歳で剣術を習った。12歳で学問を始めるがこれは全く物にならなかった。14歳で出奔し、あてもなく大阪に向かうが、ごまのはえにあって無一文になり、乞食同然になりながら多くの人の助けを借りて、4カ月ぶり江戸の戻った。それでも家は断絶しなかった。

 16歳で組頭の家に出勤を始めるが、このときまだ自分の名前が書けなかった。当時、小普請の旗本や御家人は、番入りを目指し、組頭にいろいろ自分を売り込むのだが、なかなか果たせるものではない。小吉もそれを願って努力し、24歳のときにも処々の権家を廻ったが、とうとう果たすことはできなかった。後に「悔しかった」と述懐している。

 17歳で剣術をさらに極め、以後30歳くらいになるまでに、深川の暴れものとして恐れられ、そして顔役でもあった。けんかはする、金の浮き沈みも大きく、すごく金持ちになって吉原通いはする、一方で世話の焼きすぎと浪費で借金もつくった。所業が悪く、実家の父に押し込めにあうこともあった。

 その他いろいろやっている。刀砥ぎ、刀剣の目利き(後にこれで結構稼いでいる)、山田浅右衛門の弟子になって千住で胴切りや、土壇切をやったり、断食をしたり。

 そんな小吉でも、息子の麟太郎、後の勝海舟への愛情は人並みだった。西丸の将軍の子供(家慶の5男慶昌)付きになったときは、出世の緒と考えて楽しみにしていたが、夭折して御殿下りになったときは一層乱暴が激しくなった。
 また麟太郎が犬にかまれて重体になったときは、毎日水浴びをし、金毘羅にお参りをして、周囲に気が違った、と思われた(普段の所業がよほどひどかったのか・・親としてはそこまで言われることではないと思うが)という。

 天保の改革が始まり、小吉は御家人として所業不届という理由で、隠居させられてしまう。これによって海舟が相続して世に出ることが早まり、少なからず歴史に影響を与えたと言えよう。隠居後も謹慎や押し込めされ、また大病をしばしば患った。この間に文字を覚え、夢酔独言を書いた。

 その他にもいろいろエピソードがあるが、全てを書くことはできない。小普請の1御家人の生の声がつづられており、非常に面白かった。いつかこの人物を題材にした小説ができて、もっと注目されることを期待したい。