70景 中川口 小名木川と塩 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  70景 
 題名  中川口 
 改印  安政4年2月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  嘉永3年 

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-中川口


 この絵では左側が描かれていないが、小名木川と中川が十字に交差する場所で、江戸幕府にとって重要拠点であった。そのため中川船番所が置かれており、その建物が左下に見える。

 小名木川は家康が江戸に入府してすぐに開削された人口の川である。開削を命じられた小名木四郎兵衛の名前を取って名付けられた。
 開府当時、深川の海は小名木川の直ぐ南まで迫っていて、一帯も葦で覆われた湿地帯であったという。そこに海から少しだけ内陸に、水運のための水路を掘った。わざわざ水路を造らなくても海から舟で運べばよいと考えがちだが、江戸湾のように内海であっても波があり、風があると難破の原因にもなる。そこで湿地で掘りやすく、波もなく安定した水運ができるように、少しだけ内側に水路を掘ったのだ。
 これは沿海運河と呼ばれる方法で、英語では「イントラコースタル・ウォーターウェイ」 (Intracoastal Waterway)と呼ばれている。

 この小名木川で運ぶ最も重要な戦略物資は、塩である。家康は武田信玄が塩止めにあったことを重要視していて、領内で安定的に塩の供給が必要だと考えた。そこで行徳に塩田を作り、小名木川を使って江戸城に運ばせた。
 戦略物資である塩の確保のため、行徳塩は保護された。2代将軍秀忠は行徳まで出向いて、奨励金を2000両出したと言われている。

 しかし江戸時代も時が経つにつれて、塩は軍需物資から商業物資に変化し、江戸の需要を満たすためどしどし江戸に運ばれてきた。東京港史によると安政3年(1856)の塩は、下り塩で160万俵、地廻り塩で17万俵と下り物が10倍で圧倒している。
 その下り物で高いシェアなのが赤穂の塩である。以下、斉田(徳島)、竹原(広島)、三田尻(防府)、瀬戸(岡山)、田津倉(岡山)、波止浜(今治)と瀬戸内海で占めている。
 瀬戸内海の製塩は入浜式製塩法と呼ばれ、入浜式は満潮時ごとに塩田の水門を開き、海水を入れては乾燥させる方法で晴天の多い瀬戸内海で有効な製法である。一方行徳は、天日があまり期待できないため炭や木材を燃やして、窯で煮詰めて塩を取りだした。そのため効率が悪く燃料費もかかってしまう。

 そこで行徳塩は品質を重視することで生き残ってきた。下り物の十州塩は製塩してからすぐに江戸に送るため、途中で水分が抜けて俵がすかすかになる。塩は2割減ってもOKという決まりがあったことから、それくらい減るのが当たり前とされていたようだ。一方行徳塩は、製塩後半年寝かしてから出荷していた。
 そのため、行徳塩は十州塩より辛かった。通は舐めただけでどちらの塩かわかったという。

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-江戸名所図会 行徳塩竈之図
江戸名所図会 行徳塩竈之図


 塩の話でだいぶ脱線してしまった。小名木川と直交する中川の瀬替えについては、次回のネタにする。中川船番所は、軍需物資の運搬の要衝と、入鉄砲と出女を監視する関所としての役割が大きかった。しかし時代が下り形骸化して、「通ります」「通れ」で済むようになった。川柳に

通ります通れ葛西のあうむ石

と詠まれた。最後にいつもならここで、この絵の描かれた日の推測をするのだが、それは次回。


参考文献
広重 名所江戸百景
新版 江戸水の生活誌―利根川・荒川・多摩川
江戸東京の川と水辺の辞典

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