それでは、他にどんな版元があったのか?ここでは広重が生きた時代の版元と、その関係について紹介してみよう。
蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)
通称蔦重と呼ばれ、初代は喜多川歌麿、東洲斎写楽、十返舎一九を見出したことで版元として有名。そのサクセスストーリーは現代本としても出版されている程である。堂号は耕書堂、安永のころ吉原五十間道に吉原細見を売り出す版元として栄え、その後日本橋通油町に移す。店は明治まで続くが、寛政3年には山東京伝の禁忌本で身代半減、また一説によると初代が亡くなって10年後には通油町から移転して地位が危なくなったとされる。下の図は身代半減の時代の通油町のときのもの。版元としては大きいが、小売には力を入れていない風だ。
広重は蔦重からの出版はなく、分家である蔦屋吉蔵(つたや きちぞう)の紅英堂から、3枚続きのシリーズである東都名所、天保10年ころに江戸名所、安政2年に東海道五十三次名所図絵(いわゆる竪絵東海道)などを出している。
![$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-蔦屋耕書堂](https://stat.ameba.jp/user_images/20110902/09/cofdm/ee/db/j/t02200296_0785105511457220447.jpg?caw=800)
蔦屋
竹内孫八(たけのうち まごはち)
堂号は保永堂で霊岸島塩町に天保年間にあった版元。広重の出世作となった天保4~5年ころの「東海道五拾三次之内」を出版した版元として有名。一般に広重の東海道五十三次と言えばこのシリーズのことを指す。
竹内孫八は、質商の子として生まれ、版元業を興こし、「東海道五拾三次之内」は鶴屋から出資を受けて出版している。その後、「木曽街道六十九次」で版権を譲って手を引いている。
なお、東海道五拾三次之内の御油で大きく見える竹之内の字は、こっそりと版元を宣伝している。
![$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-東海道五十三次之内 御油](https://stat.ameba.jp/user_images/20110812/21/cofdm/e1/1d/j/t02200144_0500032811412624953.jpg?caw=800)
東海道五十三次之内 御油
鶴屋喜右衛門(つるや きえもん)
堂号は仙鶴堂。江戸で有数の版元で、寛文のころ京都より進出し、明治に至るまで存続している。店の場所はかなり転々としているが、江戸名所図会に描かれたころは通油町にあった。
江戸名所図会に描かれている鶴屋には、店の奥にうず高く積み上げられた浮世絵、また店の左側には大きな風呂敷を背負った浮世絵の仲買人である「世利(せり)」が描かれている。鶴屋の問屋としての実力が伺える。世利の一人に○に村の風呂敷が見えるが、同業の村田屋の世利である。版元同士で商品の融通をしていたことが分かる。
出版物は黄表紙、錦絵を中心に手広く、代表作として柳亭種彦「偐紫田舎源氏」。
竹内孫八は鶴屋の資本があって東海道五拾三次之内を出版したとされる。しかし広重が直接鶴屋より出版した浮世絵は見当たらない。
![$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-江戸名所図会 錦絵](https://stat.ameba.jp/user_images/20110902/09/cofdm/ee/47/j/t02200147_0800053411457213870.jpg?caw=800)
江戸名所図会 錦絵
魚屋栄吉(ととや えいきち)
江戸名所百景の出版社として知られているが、安政に突如として現れた。堂号は小田屋、店の場所は下谷新黒門町。百景の他に、歌川国貞「豊国漫画図会」がある。
和泉屋市兵衛(いずみや いちべえ)
堂号は甘泉堂、店の場所は芝神明前三島町。貞享より明治まで店が存続していた、江戸後期の代表的な版元。東海道名所図会、特に役者絵として歌川豊国を第一人者にしたとされる。嘉永5年の張交江都名所という縦構図にいくつもの名所を交ぜる画期的な作品がある。
![$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-張交江戸名所(泉市) 御茶ノ水神田川他](https://stat.ameba.jp/user_images/20110902/10/cofdm/d8/ea/j/t02200327_0404060011457259723.jpg?caw=800)
張交江戸名所(泉市) 御茶ノ水神田川他
川口屋正蔵(かわぐちや しょうぞう)
堂号は正栄堂、文政から嘉永の期間にあった版元。店の場所は転々としていて、銀座四丁目、後に両国広小路、南飯田町、山城町と移っている。浮世絵には川正と彫ってある場合が多い。
俗に云う(一幽斎描)東都名所は、「両国之宵月」「高輪之明月」は後の近像型構図のさきがけを思わせる作品として注目されている。天保年間は広重の作品を幾つか手がけているが、弘化、嘉永になりぱったりなくなった。
山田屋庄次郎(やまだや しょうじろう)
堂号は錦橋堂、文化から明治まで続いた版元。場所は、中橋広小路、後に南小伝馬町二丁目に移転している。山田屋版江戸名所は、百景とほぼ同時期の作品(嘉永6-7年、途中中断して安政3-5年)であることから、本ブログでの引用も多い。このシリーズは横構図で、広重が後年多用した縦構図ではないが、人物が大きく描かれているのが特徴で、百景の近像型構図とは別の試みがされている。
![$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-江戸名所(山田屋嘉永6) 亀戸梅屋敷](https://stat.ameba.jp/user_images/20090603/22/cofdm/7a/5e/j/t02200143_0640041610191006409.jpg?caw=800)
江戸名所(山田屋嘉永6) 亀戸梅屋敷
佐野屋喜兵衛(さのや きへえ)
堂号は喜鶴堂。広重はこの版元から多くの浮世絵を出している。東都名所は初め喜鶴堂の印で販売していたが、その後佐野喜と改める。東都名所の中には「日本橋之白雨」など傑作がある。
![$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-東都名所日本橋白雨](https://stat.ameba.jp/user_images/b2/3e/10143886023_s.jpg?caw=800)
東都名所(佐野喜) 日本橋白雨
他、武鑑を出していた須原屋などがあるが、浮世絵とは縁がないため今回は紹介しなかった。
この記事で参考にした本
江戸の本屋 上 (中公新書 568)
江戸の本屋 下 中公新書 571
探訪・蔦屋重三郎―天明文化をリードした出版人
川柳江戸名物図絵
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