景数 | 66景 |
題名 | 五百羅漢さゞゐ堂 |
改印 | 安政4年8月 |
落款 | 廣重畫 |
描かれた日(推定) | 嘉永元年~5年 |
![$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-五百羅漢さゞゐ堂](https://stat.ameba.jp/user_images/20110718/22/cofdm/40/2c/j/t02200327_0252037511358791139.jpg?caw=800)
題名の五百羅漢さゞゐ堂とは、竪川の五ッ目と小名木川との間の亀戸村の田んぼの中にあった黄檗宗羅漢寺の堂のことである。堂の内部がらせん状になっているため、三匝(さんそう、と読むが江戸訛りでこれを、さざえと読ませる)堂と呼ばれた。三匝堂は三階建て、通路に五百羅漢を配置し、堂内を巡拝できる観音堂として、地上10m余もある高層であったことから、衆庶の注目を集めた。周囲は田んぼでさえぎるものがなく、葛飾北斎は、「富嶽三十六景」でここからの眺めを描いている。
三匝堂の内部については、江戸名所図会に内部構造と、全ての羅漢像が描かれており、長谷川雪旦の力作となっている。
広重も百景を描く以前に、三匝堂を何度か描いている。
そんな名所であった羅漢寺は、安政地震では大被害にあった。武江年表によると
五ツ目五百羅漢寺本堂大破、左右の羅漢堂ならびに天王殿(布袋四天王、関羽を安ず)潰れ、三匝堂(俗にさゞえ堂といふ)大破に及べり
と、三匝堂は大破、本堂なども大被害であった。その後、三匝堂を修復することができず、明治7年に取り壊しになった。羅漢寺は明治20年に本所緑町に移るが、廃仏棄釈によって羅漢像は散逸し、現在の移転先である目黒には287体が残った。
最後にこの絵が描かれた日の推測をしてみよう。安政地震で三匝堂は大破してしまったので、絵のように3階まで上がって眺望を楽しむことはありえない。そもそも地震で大破し、復旧のめどが立たないのに名所として取り上げているのは、広重が三匝堂が大破した事実を知らずに描いたと考えられる。
過去の作品で、百景の構図ともっとも近いのは、遠彦版江戸名所「五百羅漢さゞゐ堂」で、右側に三匝堂を配置し、田んぼの風景を描いていて、木の配置、富士山が描かれていない、地平線と空の境界を赤くぼかしているなど、共通点が多い。
改印から描かれた年代を推定すると、名主2印なので弘化4年から嘉永5年の間の作であることがわかる。さらに落款を見ると、廣の字が一番乱れている時期である一方、重の字は後年の字に類似している。廣の字は、天保年間は八の右点が字のバランスを取るように少し長くなっている場合が多いが、弘化嘉永では、廣の字がかなり崩れ、マダレの3画目が太くなり、傾いた字形になる。安政に入ると少し丁寧に書くようになるが、その傾向は続く。このことから嘉永年間の作と考えられる。
以上から実際に描いたのは改印直前であろうが、元の絵は嘉永年間(元年から5年の間)の作品であったと推測する。
参考文献
江戸東京 はやり信仰事典
広重―江戸風景版画大聚成
実録・大江戸壊滅の日 (1982年)
江戸名所図会 (下)
定本 武江年表〈上〉 (ちくま学芸文庫)
定本 武江年表〈中〉 (ちくま学芸文庫)
定本武江年表 下 (ちくま学芸文庫)
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