| 景数 | 42景 |
| 題名 | 玉川堤の花 |
| 改印 | 安政3年2月 |
| 落款 | 廣重画 |
| 描かれた日(推定) | 安政3年3月16日 |

この絵の改印は安政3年2月で、百景で改印の日付が最も早い5枚のうちの1つである。
この絵の解説は、「謎解き 広重「江戸百」
この絵の描かれている場所は、現在の新宿御苑の大木戸門辺りに流れていた玉川上水である。玉川上水の桜が、江戸後期に有名なのは小金井付近であるが 、天保のころになると老木化が著しく枯死してしまう木も出てきた。
そんな折、内藤新宿の人々がこの地に桜を植えて、広重に浮世絵を描かせて、一気に名所化してしまおうと画策したのであった。藤岡屋日記によると、桜が植え始められたのは安政3年の2月13日、「内藤新宿南側裏手、玉川上水土手通三丁程へ、桜樹大小、およそ75本が植付け」とある。
この桜が満開になる絵を、安政3年2月の改印で描くのは不可能であるので、広重は満開の桜を創造して描いていることになる。このことから広告効果を狙って描いたことは明らかで、さらに付け加えると広重は百景だけでなく、四谷にある濃州屋からも3枚1組で同様の絵を描いていて、一気に名所化を狙って画策したことが伺える。
絵の構図について見てみよう。絵の中で、玉川上水はカーブになっているが実際は直線の流れで、広重得意の奥行きを見せるためのデフォルメである。しかし近像型構図は取り入れていない。百景で近像型構図が取り入れられたのは、この絵から2ヶ月後の改印のある52景「赤坂桐畑」がはじめである。上水端に桜を植えるのは、花びらが水の毒を抑制するという迷信が信じられていたからで、実際に名目上これを理由に勘定奉行の許可を得て植えたのであった。小金井の桜も解毒を理由として植えられている。藤岡屋日記によると植えられた桜は大小75本の桜を織り交ぜて植えたようで、この絵のように整然とはしていなかったと思われる。また丸太で馬をつなぐ駒寄を作ったとあるが、この絵には描かれていない。
桜並木の左側は、赤い花の潅木のある家があるが、門の形からして商家の寮であろうか。道にはさまざまな人があふれている。武士、町人風の人々、揃いの傘を持った女性の集団など。特にこの女性の集団は、広重の絵にはよく見られるもので華道か踊りかの師弟の集団である。当時は裕福な家庭の娘は踊りや、常盤津など一通りの教養を持つことが嫁入りの条件のようなもので、習い事をする場所はあちこちにあり、この集団が出かけるときや、家族に対して披露する発表会などは、揃いの着物にするのが暗黙の決まりであった(今でも似たようなことはあると思う)。花見などは集団の存在を披露する格好の場所で、ごぞって集団で出かけたのである。
並木の対岸の2階建ての建物は遊郭で、この桜並木に出資したスポンサーだと思われる。2階から遊女が桜を見物しており、さりげなく広告効果を狙っている。
本来ならば、これを機に名所となり、毎年大勢の人が押し寄せて、墨田堤や御殿山のような桜の名所となるところだったが、事件は起こった。
まず木を植えるのに勘定奉行の許可は取ったが、御林奉行へは無届けだった。そのため御林奉行からの詰問に対して新宿の衆は返す言葉もなかった。
さらに桜が開花したころに立てた立札に「御用木、折るべからず」と書いたが、この桜は御用木ではなかったので、御用を語るとは不届きということになった。そして3月16日に老中阿部伊勢守が視察に訪れ、遂には全て取払いの命が下った。一気に名所としての地位を築こうとしたのが一転、わずかひと春で伐採されたのであった。
大木は伐採された近くの風呂屋の薪にされたが、一部の桜は、中ぐらいは天龍寺前稲荷社や小金井の桜堤が老木したところに植えた、とある(藤岡屋日記)。
さて最後にいつものように、この絵が描かれた日の推測であるが、前述の通り桜が咲く前に描かれたことは明らかであるが、実際に桜が満開だった日を想像して描いたとすると、満開の日は言うまでもなく老中阿部伊勢守がこの地を訪れた日ということになる。したがって広重はこの日を想像して描いたことになる。
この記事で参考にした本
新収日本地震史料〈第5巻 別巻2〉安政二年十月二日 (1985年)
広重 名所江戸百景
近世庶民生活史料 藤岡屋日記〈第7巻〉
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