30景 亀戸梅屋舗 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  30景 
 題名  亀戸梅屋舗 
 改印  安政4年11月 
 落款  廣重畫  
 描かれた日(推定)  安政3年2月11日ころ 

広重アナリーゼ-亀戸梅屋舗


 この絵はゴッホが模写したことで有名である。模写に選んだ理由には諸説あるが、広重特有の近いものをより強調した構図である、いわゆる近像型構図のテクニックを会得するためだと言われている。

 ゴッホは、その模写した「亀戸梅屋舗」の枠に日本語を何か書き足している。もちろん日本語がわかるわけがないので、何かに書いてあった文字を写したのであるが、その文字は「新吉原筆大丁目屋木 大黒屋錦木江戸町一丁目」とある。判読不明意味不明なところもあるが判読可能なところについて、「安藤広重のナゾ」という本によると、これは新吉原の遊女錦木のことで江戸町一丁目大黒屋に安政元年~6年まで営業していた実際の遊女の錦絵にあった文字を、模写した「亀戸梅屋舗」に書き足したことが分かっている。

 梅を描いた百景は27景「蒲田の梅園」が他にあるが、その梅の木と樹形が違うことはすでに説明した。亀戸の梅は、樹高が低く梅を収穫しやすいように枝うちしている。この絵にもはっきりと切られた枝のあとが描かれている。
 これらの梅の中でも最も有名なのは「臥竜梅」で、江戸名所花暦(現代語訳)には、
「梅屋敷 立春より三十日メ 本所亀戸天満宮より三丁ほど東方にある、清香奄喜右衛門の庭中に、臥龍梅と唱える名木がある。実に龍が横たわっている如くした形で、枝は垂れて地中に入ってまた地を離れ、いずれを幹とも枝とも定めがたいものである。匂いは蘭じゃに負けずと張り合うほどで、花は薄紅色である。」
とある。
 「竜梅」と名付けたのは、徳川の何代目かの将軍が、たまたまこのところへ居合わせたときに名付けたとされる(江戸の日暦)。その後吉宗公の代に世継ぎの梅として将軍の御用木となり、毎年梅の実を2籠ずつ本丸と二の丸に納めた。
 このように亀戸の梅は経歴も格別で、蒲田や木下川新梅屋敷などとは格が違ったのである。そんなわけで、ここを訪れる人も粋人が多く、若者や野暮な人は少なかったとされる。

 広重はこの名所を過去に何度も描いている。百景と最も近いのは山田屋版の江戸名所で「臥竜梅」を描いている。ここでの構図はごく平凡で、百景で多用した近像型構図とは全く違う。しかし百景の左上のほうにある何か良くわからない物は、「臥竜梅」の近くにあった小さな堂(稲荷?)の屋根の一部であることがわかる。また遠景にある建物は百景では一部しか描かれていないが、山田屋版江戸名所では庵であることがわかる。
 このように構図は全くことなるが、おそらく同じ場所から描いたか、山田屋版江戸名所から大胆に構図を変化させて描いたことがわかる。

広重アナリーゼ-江戸名所(山田屋嘉永6) 亀戸梅屋敷
江戸名所(山田屋嘉永6) 亀戸梅屋敷



 最後にこの絵の描かれた日の推測であるが、前述した江戸名所花暦にはこの地の梅の見ごろは、立春から数えて30日目であるとある。従って描かれた年が分かれば推定できるのだが、この絵からは年を見切る情報がない。
 安政地震による梅屋舗の被害は斎藤月岑の「武江地動之記」によると、「梅屋敷精光庵潰れる。料理屋巴屋潰れる。画人豊国家小破。」とあり、少なからず被害があったようだ。また安政3年8月25日に江戸を襲った猛烈な台風では、安政風聞集によると本所深川一体は洪水になって、南割下水通りのあたりの大小武家屋敷・町家ともに高潮のために、土地が高いところで床すれすれ、低いところで床上三尺あまりになったとある。しかしこの絵には、その影響がみられない。
 この絵では遠景にある庵が半分しか描かれていない。本来ならば山田屋版のように複数の庵があるのに半分だけなのは不自然である。もしかすると地震で倒壊から免れた庵を描いたのかもしれない。また洪水の影響は梅屋敷にとってそれなりに被害をもたらしたはずで、安政4年春の梅は十分な花が咲かなくて人入りが悪かったのではないか。この臥竜梅は明治43年の洪水で枯れてしまったことからも、梅にとって洪水は木勢が劣る原因になりうるのだろう。
 改印が11月であることから、実際に絵が出るのは2ヶ月先ころになる。安政5年に咲く梅に対する広告目的がありそうだ。
 以上から、安政3年の地震直後の梅屋敷を描いているが、目的としては洪水のため安政4年の梅の咲きが悪く、安政5年に向けて復興をアピールする広告目的で描かれたと考えるのが妥当である。

 安政3年の立春から数えて30日目は1月29日になるが、この年は家定公が梅屋敷に2月11日に御成していて、そのころが梅の見ごろと考えられる。ここではこのころを描かれた日としておく。


この記事で参考にした本
安藤広重のナゾ―東海道五十三次ミステリー
江戸名所花暦
江戸の日暦〈上〉 (1977年) (有楽選書〈14〉)
広重―江戸風景版画大聚成
日本庶民生活史料集成〈第7巻〉飢饉・悪疫 (1970年)
和洋暦換算事典

この記事は全てオリジナルです。許可なく他への引用は禁止です。