| 景数 | 29景 |
| 題名 | 砂むら元八まん |
| 改印 | 安政3年4月 |
| 落款 | 廣重筆 |
| 描かれた日(推定) | 安政3年3月13日ころ |

この場所は、現在の東京都江東区南砂7丁目あたりであるが、尾張屋版切絵図にこの場所が載っておらず、江戸市民にとっては、江戸市中からかなり離れた場所という感覚だったのだろう。
江戸名所花暦では挿絵がなく解説だけで、
「元八幡宮 同七十日メ頃 砂村新田の東の海手なり。当社花表(とりい)の額に、富賀岡八幡宮とあり。四、五町か間、野道の左右へ桜を裁たり。南には海をひかえて、絶景の地なり。里人に尋しに、こゝは袖しか浦とこたへたり。この老翁の云へる斗(ばかり)にては、信しかたし。なほ鑿穿(さくが)すへし。深川八幡宮、むかし此処にありしを、寛永の頃、今の地に移しまつる。されとも是に小社を建て、其名残を存すといふ。」
とある。描かれた日を特定するのに、ありがたいことに桜が咲く時期がはじめに書いてあり、立春より70日目頃とある。場所は砂村新田の東の海側とあり、この砂村というのはこの地を開発した砂村新左衛門の名をとったとされる地名である。砂村新田は既に田圃となっているが、海側のこの地では絵で見るように湿地である。
砂村といえば、時期外れの促成栽培が有名である。寛文のころ(1661年ころ)、砂村の百姓久四郎がなす、きゅうり、菜種などの促成栽培の方法を開発し、以来市場よりも数か月早く出荷できることで高く売ることができた。天保13年(1842年)の天保の改革で、贅沢品とされて一時促成栽培が禁止になったが、ほどなく禁も解け、以後も砂村は促成栽培の代名詞であった。
絵に見える鳥居は元八幡の鳥居で、額には「富賀岡八幡宮」と書いてあり、絵では数本が描かれているだけであるが、実際には4、5町(1町が109mなので4、500m)続いていることがこの解説でわかる。老翁の話は割愛して、深川八幡宮は昔この地にあったが寛永のころに移って、今は小社が建っている、とある。
その小社が、江戸名所図会に描かれているが、小社と言うほど小さくない。百景ではこの社を描かないで鳥居だけ描いている。先ほどの桜や、この社といったこの地のメインとなる所を描かないという広重の構図の取り方の真意がわからない。
さらに言えば、江戸名所図会では、社周辺に「この辺り、矢竹多し」と2か所も書き込まれていて、矢竹が多いことがわかるが、それについても描かれていない。ちなみに矢竹というのは名前の通り、弓矢の矢に使う竹で、節が低く真直ぐに生える性質がある。安政などの江戸末期ではどうかわからないが、戦国時代では弓矢の原料にするため、武家では家の庭に植えたと言われる。
最後にこの絵の描かれた日を推測してみよう。この地は江戸から比較的離れた場所にあるが、以外にも広重は切絵図からはずれるような房総方面の絵を百景で多く描いている。71景「利根川ばらばらまつ」とか96景「堀江ねこざね」がそれに当たる。この絵を含めてこれらの絵は、構図が独特で図会など他に見られないものが多い。恐らく広重が実際に見て描いたものだと思われる。
広重は房総方面へ2回旅したことが知られていて、直近では嘉永5年に行っている。1つには、このときのスケッチを基に描いたと推測できる。遠景に房総を描いているのも、広重が発しているメッセージなのかもしれない。
しかし、江戸郊外とはいえ、太田南畝や斎藤月岑は国府台まで1泊で行ったという記録もある。広重の詳細な行動がわかる記録はほとんど失われてしまっているので、もしかすると百景のためにこの方面へ行ったかもしれない。
結局、いつ描かれたのかこの絵からは推測できないのであるが、決め打ちして直前の春とすると安政3年になる。江戸名所花暦にあるように、この地の桜は立春より70日目に見ごろとある。11景「上野清水堂不忍ノ池」の記事にあるように安政3年は例年どおりに桜が咲いたので、暦から数えてみると、立春が前年12月28日なので、70日目は3月13日にあたる。家定公が花見のために御成した日とぴったり一緒である。
この記事で参考にした本
切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩 (古地図ライブラリー別冊)
江戸名所花暦
新訂 江戸名所図会 全6巻別巻2セット
もっと知りたい歌川広重―生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)
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