31景 吾嬬の森連理の梓 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  31景 
 題名  吾嬬の森連理の梓 
 改印  安政3年7月 
 落款  廣重筆  
 描かれた日(推定)  天保5年 

広重アナリーゼ-吾嬬の森連理の梓


 吾嬬の森は北十間川と木下川の交わるあたりにあり、尾張屋版切絵図にはかろうじて載っているが、ここは江戸のはずれである。この絵は、吾嬬権現社を描いていて、名物だったのは参道に立てられた幟と、連理の樟(くすのき)である。幟は権現社に奉納されたもので年中立てられており、切絵図にも描かれている。
 この絵の題は、連理の梓とあるが、実際には樟で、草書で書くとわずかな違いであるため、広重の筆がすべったというのが研究者の統一した意見である。連理とは2つの木が1本にくっついた状態を呼ぶが、1本の木が2枝に分かれて再びくっつく場合にも呼ばれるそうである。ただ絵を見ると1本の木の枝が2つに分かれたように見える。絵ではわからないが、接合部分は連理と呼ぶのにふさわしいものであったのだと思う。江戸では他に連理の藤というのがあった(江戸名所花暦)。

 広重は、この場所を過去に何度も描いていて、しかもその構図はまったく同じである。さらにその構図は、江戸名所図会と同じである。広重は江戸名所図会をだいぶ参考にしているが、過去の作品から一環して引用し続けている場所は少なく、吾嬬の森以外は、王子滝の川くらいであろうか。

広重アナリーゼ-江戸名所図会 吾嬬森吾嬬権現連理樟
江戸名所図会 吾嬬森吾嬬権現連理樟


広重アナリーゼ-江戸近郊八景之内 吾嬬社夜雨
江戸近郊八景之内 吾嬬社夜雨


広重アナリーゼ-絵本江戸土産 吾嬬の森
絵本江戸土産 吾嬬の森


 いくつか過去の作品を並べてみた。江戸名所図会は今更説明するまでもなく、長谷川雪旦画で、雉子町名主斎藤月岑の祖父、父と3代によって、30年の歳月を掛けて編纂された。刊行は天保5年。
 江戸近郊八景之内は広重の人気を決定付けた「保永堂版 東海道五十三次」を起点とすると、広重初期の作品で線が細かく、使用している色が少ない、個人的には好きな画風で描かれている。このような画風の絵には他に、「木曾街道六十九次 洗馬」、「江戸近郊八景之内 玉川秋月」などが挙げられる。
 江戸江戸土産には1編に載っている。1編の刊行は嘉永4年。過去の作品と比べ、百景にあるような舟が追加されたことと、連理の樟が少し大きく描かれている。
 その説明には、「吾嬬(あづま)の森 橘姫(たちばなひめ)の故事(ふること)人のよく知るところなり。連理の樟(くす)の巌(いはほ)となるまで,千代万代も朽ちせぬ操(みさを)東都第一の旧跡なり」とある。

 橘姫の故事とは、堀晃明氏の「広重の大江戸名所百景散歩」を引用すうると、「昔日本武尊が軍を率いて相模国から上総国へ渡ろうとして船に乗った。ところが海が荒れて船が沈みそうになったので、妃の弟橘媛が海神を鎮めて夫の武尊を助けるべく海へ入水した。これにより武尊は無事海を渡ることができた。その後、弟橘媛の着ていた形見の着物が吾嬬の森の近くに漂着したので、武尊は部下に命じてこの着物を吾嬬の森に壇を築いて収め、瑞籬(マガキ)を巡らして廟を造らせた。武尊はここで媛の霊を鎮めてから食事をし、使った樟箸2本を廟の東に挿した。後になってこの箸に枝葉が出てきてくっつき一根二幹の樟に成長した。」とある。


 最後に、この絵の描かれた日を推測であるが、ここまで過去の作品を引用し続けてるのでは、もはや予測困難である。江戸名所図会から引用ということから、図会の成立した天保5年ということにしておこう。

この記事で参考のした本
切絵図・現代図で歩く江戸東京散歩 (古地図ライブラリー別冊)
広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
江戸名所花暦
江戸名所図会 (下)
広重―江戸風景版画大聚成
天保国絵図で辿る広重・英泉の木曽街道六拾九次旅景色 (古地図ライブラリー)

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