名所江戸百景 8景 する賀てふ | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  8景 
 題名  する賀てふ 
 改印  安政5年4月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  安政2年12月初~中旬 

広重アナリーゼ-する賀てふ


 安政2年10月2日に起こった安政江戸大地震で越後屋は、土蔵に大きな被害が出たが、店舗の被害は少なく、類焼の被害もなかった。このため数日休んだのち、10月7日には本店、8日には向店が早くも店を開けた。越後屋は単に営業を再開しただけでなく、10月14日の時点で得意先の被害状況を把握していて、後に見舞い金を各戸に数両ずつ出していてる。この辺りの対応は誠にすばらしい。開店後1ヶ月程は、余震や片付けに人々が追われていたため、売上もなかなか上がらなかった。しかし12月1日から冬物セールが始まり、通常と変わらなくなったと記録にある。
 さて土蔵被害であるが日本地震史料によると、本店だけで17の土蔵があり大半が破損した。そのうち土蔵の中では中くらいの売倍土蔵(大きさ三間*四間)を例にとると、屋根瓦は残らず落下し、蔵の中まで土壁や瓦が落ち、壁も崩れた。この蔵の修理だけで145両かかっている。3店全ての土蔵と店舗の修理に3888両あまりかかっている。1両が現在のいくらに当たるか議論はあるが、安く見積もって10万円としても、約4億円弱になる。この金を工面できるところは、さすが大店というところである。

 次に絵をよく見てみると、富士山はすっぽり雪に覆われているが、幾筋か灰色の筋がある。これは冬至近くの太陽が低い季節の午前中に出る陰と思われる。人々の服装もまだ寒い時期であることが窺える。安政2年の冬至は旧暦11月14日、前述したように三井家文書にある12月から通常とあり、さらに安政2年12月の下旬は雪が幾日か降り道が悪かった。このことから日付は特定できないもの安政2年の上旬から中旬の絵と思われる。

広重アナリーゼ-冬の富士山
冬至近くの朝の富士山 著者撮影


 描かれた日はこのように予想できるが、この絵の描かれた目的は越後屋の宣伝にあったと思われる。越後安政2年12月初旬から中旬までを描いたもの屋では12月に冬物のセールが行われる。改印を見ると安政3年9月なので、絵の発売は10月か11月ころが予想できる。つまり恒例の12月の冬物セールに合わせた絵である可能性がある。百景以外にも麹町の岩城屋(東都名所 佐野喜 糀町五丁目呉服店ノ図)を安政3年9月改印で描いてることも興味深い。
 百景は芸術的な要素だけで評価する人もいるが、版元の威光や、町絵師である立場から、実際には売れて何ぼというところもあったに違いない。ひとつ前の「大てんま町木綿店」やその他の店の絵の多くは、大半は店の宣伝目的であったのである。「広告で見る江戸時代」には電通が所有する百景の絵がいくつか紹介されているが、以外な絵までが広告を意識した絵(電通が所有しているので、広告目的と判断して所有しているのだと思うが)であることがわかる。こう書くと幻滅してしまう人もいるだろうが、このブログの題であるアナリーゼ(音楽用語だが作品がどうつくられたか分析する学問)も重要である。
 また百景を改印順に並べると、安政3年9月から落款がいままで廣重筆だったものが、廣重画に変わって、以降の作品の安政4年7月までずっと使っている。この変化については分析できていない。

 結論として、この絵は安政2年12月初旬から中旬までを描いたものであるが、実際には12月からの冬物セールのための宣伝目的のため描かれた絵、とここではしておこう。

このブログで参考にした本
広重―江戸風景版画大聚成
新収日本地震史料〈第5巻 別巻2〉安政二年十月二日 (1985年)
和洋暦換算事典
広重と浮世絵風景画
広告で見る江戸時代
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