名所江戸百景 7景 大てんま町木綿店 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  7景 
 題名  大てんま町木綿店 
 改印  安政5年4月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  安政5年1~2月ころ 

広重アナリーゼ-大てんま町木綿店



 この絵は、描かれた日付が特定できていない絵の一つである。
 大伝馬町は、奥州街道が橋場の渡しから隅田川を越えていたころ、街道のメインストリートであった。このころに伝馬を多く揃えていたことから、伝馬町の名前がついた。今日でも小伝馬町が町名や駅名として残っている。大伝馬町といえば、天下祭である神田祭と山王祭の両方に1番山車である諫鼓鳥を出す、江戸屈指の豪商がある町である。天下祭は費用がかかるため、両祭を隔年で交互に行うことになっているが、その両方に山車を出しているのである。両方に山車を出しているのは他に南伝馬町(2番の猿)しかない。ちなみに天下祭の山車の順や種類について、まとまった史料がなかなかないのであるが、中央区史に数年にわたって氏子と山車が載っている。

 広重は百景を描く以前に、天保14年弘化4年の間の作品とされる「東都大伝馬町繁栄之図」という3枚揃えを描いている。木綿店は天保12年(1841年)の老中水野忠邦による天保改革で、問屋仲間の解散令によって弱体化し、嘉永4年(1851年)の「問屋組合再興令」まで再結成されていない。この絵は、水野忠邦の失脚後と思われる。この絵は、百景とは反対側から描いているが、風景としては黒塗り櫛形窓の長屋造りで百景と同じである。各店にのれんがかかっているが、出入り口でない部分に掛かっている幕を「八ケ間乳掛り太鼓幕」と読んだ(日本橋街並み繁昌史)。
 この絵で確認できる店は、左手前から、長谷川(その隣の、のれん丹波屋は長谷川と同じ店で丹波屋長谷川次郎兵衛店)、大和屋(その隣の、のれん永井は大和屋のこと)、川喜田屋、大三屋(大黒屋三郎助店)、えびすや、あとは判読できないが、嶋田屋、升屋、田端屋、越後屋と続いていたはずである。
 右側手前から、宮島屋、長谷川、伊藤(松坂屋)、川喜田、あとは判読できないが、嶋田屋、伊勢屋、小津と続いていたはずである。江戸名所図会にある丸屋(のれんは叶)が見当たらない。

広重アナリーゼ-東都大伝馬町繁栄之図

東都大伝馬町繁栄之図




 この独特の長屋造りには理由があった。長屋といえば、9尺2間の裏長屋という言葉があり、宵越しの銭は持たない江戸町人が密集して暮らすというイメージが強いが、ここの木綿店はいずれも大店の老舗である。
 大伝馬町には伊勢出身の木綿問屋が多く住み、木綿の中では最高の品質であった伊勢松坂産の木綿を扱っていた。同郷であることから連帯意識が強い。火事が多い江戸では被災後にいち早く店舗を復興させ、商いを開始し、売り上げることが生き残りの条件であったが、その手段としてここでは長屋造りを採用したのだった。

 ただ、大伝馬町にも伊勢出身でない店がいくつかあった。木綿製品は、それまで主流だった麻に比べて生地がやわらかく保温性が高い。そのため享保年間になると、呉服店がその資本力をバックに木綿問屋に進出してきて、伊勢出身の木綿問屋はその数を減らしてきた。そのため幕府は後から進出した店に大伝馬町の組合に入れる処置をしている。それに加えて天保の改革があった。この絵は生粋の木綿問屋だけが描かれているので、宣伝を兼ねて自分たちの店だけが入る構図を広重に(正確には版元に)依頼したのではないか。

 絵の手前には木戸が見えるが、絵で一番目立つ位置の田端屋と、右の木戸と描かれていない田端屋との間には、越後屋があった。越後屋は松坂出身だが呉服店から進出している。また道をはさんで反対側の中央付近には伊藤松坂屋があったので、そちら側は描かないようにしている。伊藤松坂屋は尾張出身で呉服店からの木綿問屋進出である。「東都大伝馬町繁栄之図」と比べると明らかに意図を感じる。

 揃い物での連番では、7番目になるが、出版順だと109番目にあたる。このころになると、出版ペースが急に落ちて、内容もお店の宣伝を兼ねたものや、余興と名前がついた作品が出てきて、広重自身は、版元の以来で枚数を重ねているようだが、やや惰性感を感じる。

 絵の中の女性たちは、この近くに招かれた芸者衆であると、ヘンリースミスの「広重名所江戸百景」に書かれている。実際に近くに招かれた芸者衆かどうか、わかるはずもないが、揃いの着物や、着物が少し厚手であることから綿入れされていると思われ、木綿店を配慮した構図による芸者衆の配置だと思われる。芸者衆の後ろのに少女がいて、これもヘンリースミス氏がしかめっ面で芸者衆に気を使っているとあるが、「東都大伝馬町繁栄之図」の中央女性に一人だけ丸顔の女性と百景の芸者2人の後ろにいる女性とそっくりであることから、この絵を参考にしたのだと思う。ここにも広重の手抜き(?)を感じる。

 以上から、この絵の内容では、描かれた日を特定するのは困難であり、また宣伝目的を兼ねているのでそもそも特定の日を意識して描かれたものでないのだが、改印の直前の春先の寒い日(襟巻をしている)だろう。だいたい安政5年の1月や2月までの風景と思われる。

このブログで参照にした本
日本橋街並み繁昌史
広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
広重 名所江戸百景
中央区史
江戸名所図会

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