名所江戸百景 9景 筋違内八ツ小路 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  9景 
 題名  筋違内八ツ小路 
 改印  安政4年11月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  安政4年8月初旬 

広重アナリーゼ-筋違内八ツ小路


 絵にあるように筋違御門の南側の広小路を八ツ小路と呼び、広重が挿絵を描いた「絵本江戸土産」第5編の筋違八ツ小路の説明には、「筋違橋の内なり。その広き事図のごとし。ここを八ツ小路といへるは,この所より見渡せば,諸方への別れ路八ツあるによつてかく唱ふとぞ。初編に出だせる八ツ見橋とその意おなじ」とあり、実際に8つの道が交わっていた。
 筋違御門は筋違橋が、神田川に対して直角に渡されておらず、斜めに渡されていることに由来する。内神田須田町の方から見ると、そのことがはっきりわかったという(江戸東京地名辞典 芸能落語編)。川柳に「須田町で見れば成程筋違だ」と詠まれている。ただこの絵では筋違御門が見えず、昌平橋の辻番所と冠木門が見える。辻番所をよく見ると火が灯っているが、夕暮れ時にも関わらず絵のように非常に往来が激しい。幕府はあまりの往来の多さのため、筋違御門は夜も閉ざすことなく開いていたという。
 八ツ小路と筋違御門の位置が描かれている例として、東都歳事記の挿絵をあげておこう。通常、東都歳事記は長谷川雪旦が絵を描いているが、この絵は息子の雪堤が描いたものである。

広重アナリーゼ-東都歳事記 神田明神祭礼
東都歳事記 神田明神祭礼


 余談ではあるが、筋違橋は公儀の橋で擬宝珠が付いていた。擬宝珠は日本橋、京橋にしかついていないと思っている人が多いかもしれないが、確かに町の管理している橋のなかではその2橋だけだが、幕府の管理している橋は普通に擬宝珠が付いていた。この擬宝珠は現存しており、現在は赤坂にある弁慶橋の擬宝珠となっている。
 絵の下のほうにかなり立派な行列が見えるが、女性用の乗物と槍ではなく薙刀を持っていることから、大奥の上臈級か、大身の大名奥方といったところであろう。試しに徳川実紀で大奥の女中の外出記録があればと思ったが、残念ながら記録はなかった。

 八ツ小路は交通の要衝であることから、ここに青物市場があり、さまざまな方面から野菜が終結した。江戸末期は青物5ケ町といい、多町、須田町、佐柄木町、雉子町、連雀町で200件あまりの問屋があった。雉子町名主である斎藤月岑は、同時に青物役所取締に任じられており、日記の中にも3日を空けずに役所に出ている。
 この役所は、安政地震の前年嘉永7年(安政元年)11月4日に起きた地震(震度5とされる)で倒壊した。

 安政江戸地震では、八ツ小路にお救い小屋ができたとあるが、地震から2年以上たった改印を持つこの絵では、もはやその面影もない。しかし神田川の土手の向こうの霞雲がかかって見えない下は、地震後に変化が起こった場所であった。
 嘉永6年のペリー来航から、幕府の動きはあわただしい。海防のために品川沖に台場を造り、軍艦を造り、防衛軍として講武所を創った。浜御殿で大砲打ちの練習や、大砲を造りための銅が足りないことから寺社の鐘を回収令を出したり、銃隊を創ってヘーベル銃を制式銃にしたり、また外国文書に対応するため九段に蕃書調書を設置した。
 しかも安政4年(1857年)10月14日には、暫く下田に滞在していたハリスが、ついに江戸に乗り込んできたのであった。これは江戸の人たちにとって、大いに興味ある出来事だった。斎藤月岑日記にその日のことが書いてあり、スケッチも残っている。ハリスは翌安政5年1月21日まで江戸の滞在しているが、接待役に斎藤月岑らが任命されて、交替で九段に詰めなければならず、日記には面倒な感じで書いてある。
広重アナリーゼ-斎藤月岑日記アメリカ人参府
斎藤月岑日記アメリカ人参府


 そんな情勢の中、武江年表によると、安政4年(1857年)五月(「聞の任」には三月十日とあり)、筋違橋御門外加賀原千九百八十坪に、築地講武所付町屋敷が作られた。講武所は、始め築地に開設されたが、その後水道橋近くに移っている。その講武所付きの町屋敷が火除け地として広大に残されていた加賀ッ原に作られた。目的は地代を取って、講武所の経費に充てるためだった。武江年表には「七月頃に至りて家作成り、繁昌の町屋と成る。」とあり、歌舞伎座、若松座、薩摩座といった芝居小屋ができた。この絵の改印あたりでは人々の話題になっていたのだろう。他にも5月に日本橋の竜閑川の大部分を埋め立てて講武所請地を作った。このために今川橋が廃橋となっている。

 広重が霞雲ではっきり描かなかったのは、講武所に関係するためであろう。ただし、その付屋敷なので規制も緩いだろうということで、絵のメインは別のものにして、霞雲を散らし、端のほうに本来描きたい目的の物を持ってくるという構図は、百景ではよく見られる方法である。

 さて、この絵が描かれた日であるが、改印と武江年表の記述から、安政4年の7月から11月までの間であることはほぼ間違えない。ハリスの江戸到着と機会として描いたのであればわかりやすいが、この日だと新暦では11月30日にあたり、絵のように木々が緑ではなく紅葉か落葉しているだろう。往来の人々の服装をよく見ると寒くもなく暑くもなくといった感じで、秋分ころ、すなわち旧暦で安政4年8月初旬ころの様子であろう。筋違御門北詰には著名な料理屋高砂屋があり、庭には見事な松があったそうだが、それにあたる松ははっきりしないし、あまりにも目だたなすぎる。これも描いた目的ではなさそうだ。

 築地講武所付町屋敷があまりにも目立った描き方ではないが、おそらく何らかの理由ではっきり描けず霞雲の下としたが、この町屋敷の暗黙の宣伝か、あるいは皮肉った絵ではないかと推測する。

このブログで参考にした本
定本 武江年表〈上〉 (ちくま学芸文庫)
定本 武江年表〈中〉 (ちくま学芸文庫)
定本武江年表 下 (ちくま学芸文庫)
新収日本地震史料〈第5巻 別巻2〉安政二年十月二日 (1985年)

広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
斎藤月岑日記第6巻
徳川実紀


江戸東京地名辞典 芸能・落語編 (講談社学術文庫)


江戸文学地名辞典


やっちゃ場伝―青物市場に伝承された400年の世相と食 (サンガ新書)


江戸の旧跡 江戸の災害―鳶魚江戸文庫〈21〉 (中公文庫)


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