北条家にも北条五色備えと称され、その武功を誇った武将たちがいました。早雲時代よりの古参小机衆白備笠原康勝、草創七手家老の家柄であり、川越夜戦でも氏康を支えた黒備多目元忠、江戸衆として江戸城代を務めた青備富永直勝、氏綱の猶子にて江戸城奪取や川越夜戦の際にも活躍を見せた赤備北条綱高、その筆頭が地黄八幡こと黄備の北条綱成です。綱成は八幡大菩薩を深く信仰し、朽葉色(黄色)に染めた四半の練絹に『八幡』と墨書きした旗を指物(自分の隊の目印)として使っていたことから、このように呼ばれました。
自分の名を与え、娘を妻として娶らせる程、氏綱から綱成への信頼は非常に篤いものでした。綱成もその信頼によく応えて、合戦の度、常に最も危険な最前線に立ち、『勝った、勝った』と大きな怒号を轟かせて敵兵を震撼させては、数々の戦功を挙げてきたのです。玉縄城主として玉縄衆を束ね、長期に渡った里見家との国府台合戦でも多くの戦績を収めます。その勇猛ぶりはかの武田信玄にも認められた程でしたが、軍功を逸らず、謙虚に主君を立てて戦果は驕らず、時には氏康の代わりに大事な局面も任されながら、軍事面だけでなく、外交面でも手腕を発揮し、北条家を支え続けてきました。氏綱の代からよく仕え、父の信頼篤き綱成に、氏康も次第に大きな信頼を寄せていったのです。川越夜戦の際にも、綱成は城主として半年もの籠城戦に耐え抜き、川越城を守り通したのでした。
川越城が8万もの上杉・足利古河公方の連合軍に包囲されてしまった際には、さすがの綱成も死を覚悟しました。自軍は3千、連合軍8万に対して、氏康が率いてきた兵もわずか8千…しかし、氏康はこの闘いに負けるつもりも綱成を死なせるつもりも毛頭ない、その意志を伝える為、川越城に使者を送ります。自ら名乗り出てその大役を仰せつかったのが綱成の弟、氏康の小姓を務めた弁千代でした。弁千代は眉目秀麗な美少年で、甲冑を纏った姿もまるで美少女が男装したかのようだったと言います。しかし、その容姿には似つかわしくない大胆不敵な単騎敵陣突破で川越城に突入し、死を覚悟した綱成に氏康の意志を伝えました、『我が殿に秘策あり』と。弟のその言葉を信じ、綱成は過酷な籠城戦を戦い抜く決意を固めたのです。この籠城戦は6ヶ月にも及びましたが、綱成は氏康の秘策が近いうちに決行されることを信じて自軍の兵を鼓舞し、ひたすら兵糧攻めに耐え続けました。そして、ついに氏康が満を持して夜襲を決行したのを知るや否や川越城からうって出て、連合軍に猛攻撃を仕掛けたのです。氏康の采配と綱成の猛攻で、8万もの大軍を蹴散らし、苦しかったこの闘いも見事な形勢逆転で勝利を収めました。氏康と綱成はこの川越夜戦を経て、さらにその絆を深めていったのです。
参考HP:『戦国浪漫』