▲河口湖 もみじ回廊
河口湖付近にはかつて御坂城がありました。武田家によって築かれましたが、のちに北条一族の氏忠(氏康の六男)が入城して、北条が甲斐領を奪取する為の第一線となった城です。本能寺の変で織田信長が倒れた後、守備の手薄になった領土を我が物とする為、近隣の領主たちは虎視耽々とその機会を伺っていました。北条氏直と徳川家康の激突した天正壬午の乱もそのような中で起きた闘いです。そして、黒駒合戦での敗北…この頃から北条の行末に昏い影が落とされていくこととなりました。
▲甲州の風物詩、ころ柿のすだれ
ころ柿という名は、柿を乾かす時、まんべんなく陽が当たるようにころころ位置を変える作業をすることによると言います。大きなハートが沢山吊り下げられているようにも見えました。
門の両脇に書かれたこの言葉は天正10年(1582)4月3日、恵林寺が織田信長の大軍に包囲され、焼き討ちによって全山ことごとく灰燼に帰した際、炎上する三門楼上で唱えた快川和尚の遺偈として知られています。北条氏康の娘は14歳で、32歳の武田勝頼と政略結婚していますが、この快川は彼女について『家語に曰く、善人と居るは芝蘭の室に入るがごとし、久しくしてその香を聞かざるも、自然これと化す。善人あに異人ならんや、淑女君是なり』と評しました。芝蘭の花に譬えて、気高く慈愛に満ちた彼女といると知らないうちに感化を受けてこちらまで穏やかな気持ちになるのだと。しかし、上杉家の家督争いで兄と夫の仲は決裂、夫の勝頼には北条家に戻るように言われましたが、それを断り、19歳という若さで天目山にて自刃、武田家の滅亡と運命を共にしたのでした。